融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論

「融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」を読んだ。
https://goo.gl/azTPQj

昨年、「フラットデザインで考える-新しいUIデザイン 」を読んで、フラットデザインが広がっている根本には、スキューモフィズムからの脱却があるということを理解した。スキューモフィズムとは、現実にあるもののメタファーをコンピュータに適用することで、無意識にその機能を使うことができるようにするという考え方だ。

「融けるデザイン」は、その先にあるものは何か、ということについて突きつけめて説明されている。非常に興奮させる本でした。

フラットデザインについての考察は、去年作ったスライドにまとめているのでよろしければ。
*UXとフラットデザイン
http://www.slideshare.net/ntaiji20/ux-49363387

以下、メモ。

■モノの本質は「動き」と「境界」にある
物質的なものとデジタルを分ける必然性がなくなった、と筆者は主張する。それでは、モノの本質とは何なのか?

生物学者ギブソンの生態心理学によれば、人間はモノを認識するとき、周囲の環境情報を利用しているという。
Moving roomという有名な実験がある。
壁と床が切り離された環境があり、周囲の壁が数ミリ浮いた状態になっていて、壁が前後に動くように作られた部屋で、実験参加者はその部屋に入り、ただ直立してもらう。
この状態で、壁を前後に動かすと、参加者は意識しないが壁の動かしと体が同調して動いてしまう。
無意識のうちに周囲の情報をかぎ取って行動している、ということを証明している。

モノそのものよりも、動きが重要なのだ。動くことで見え方は変化するが、その変化の中で変化しない性質が知覚される。物は境界からなりたっていて、境界は動きの中で現れるということを筆者は、textureworldという実験動画で表現している。
https://www.youtube.com/watch?v=drW9p0lz20Q
確かに、境界線があるからモノが浮き上がるのではなく、動いているから輪郭が浮き上がってくることがわかる。

つまり、モノは動きの中で認識されており、時間軸があって初めて存在している。したがって、モノを設計する場合、持続の中の調整、すなわちインタラクションと捉えることが大事である。
(この辺はちゃんと腹落ちしていないです)

■身体性
身体性には、生物としての身体と知覚原理としての身体がある。道具を考える上では知覚原理が重要となる。
この身体はまさに自分のものであるという、自己帰属感とこの身体の運動を引き起こしたのはまさに自分自身であるという運動主体感を持つとき身体として知覚される。運動主体感覚は生物としての身体に限定されない。道具に運動主体感を持たせることができれば、筆者の目指す「融けるデザイン」になる。

■知性が宿るのは環境とのインタラクションにある
入来篤史氏の道具をサルに使わせた実験によれば、大きな脳を持った人間が新しい生活方法を見出したというよりは、むしろ道具の使用、地上生活、狩猟生活が人間の脳を大きくさせた。

■インターフェース
・モノの本質は、周囲との境界、インターフェースにある。
・身体性を考えるとき知覚される身体とモノの境界、インターフェース。
・身体全体が環境とのインターフェースである。

■経験
経験は、環境とのインタラクションであり、インターフェースを通して行われている。

「いいデザインは形でしょうか。いい時間だと思いませんか?」(シャープの液晶テレビのCM)
設計するのは「よい時間」=経験
経験価値によって重要なのは、新しい体験の提案ではなく、知っていたことを気づかせること。(深澤直人)

■インターフェースの進化
1.道具のインターフェース
2.機械のインターフェース
3.コンピュータのインターフェース
4.インターネットのインターフェース

スキューモフィズムはコンピュータの時代のインターフェースで役立つ考え方だった。もっというと、機械からインターネットのインターフェースの移行期だったともいえるかもしれない。

*インターネットは世界に一つしかない。だから、「the internet」
*今までは1つのモノとのシングルインタラクションを考えればよかった。複数のインターフェースとやり取りする、バイラルインタラクションへ。
*メタメディア。特定のメディアに対するデザインから、複数のメディアでのインタラクションデザインへ。
*経験価値の設計の上で、人間の行動がボトルネックになりやすい。
*テクノロジーができるから、人間がやるという発想の転換が必要
*あなたのサービスは生活のごく一部であり、競合する時間消費の方法は無数にある
*プログラミングは、メタデザイナーが自らがデザインしたインタラクションを表現する手段である

*使いやすい時間
時間に合わせて提供する。

■筆者が設計したプロダクト
*CastOven。オーブンで温めている時間にあったコンテンツ(YouTube)を提供する。

*smoon。計量が不要なスプーン。レシピサイトから情報を取得して必要な分量を掬えるようにスプーン自身が変化する。

北欧旅行まとめ

2016/8/1 ~2016/8/27 に、フィンランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、スウェーデン、デンマーク旅行中に書いた記事の一覧です。リアルタイムではFacebookにアップしていました。

写真はGoogle Photosで管理していて、「街歩きメモ」とある投稿の最後のリンクをクリックするとアルバムが開きます。Google Photosは、スマホと連携させておくと自動で更新されるので便利です。

街歩きメモ:ヘルシンキ

白熱灯とLED

街と建築家

現代アートについて考えた:知識について

ヘルシンキで電車に乗る

飛行機でヴィリニュスへ

街歩きメモ ヴィリニュス

杉原千畝記念館

街歩きメモ カウナス

現代アートについて考えた:感性について

シャウレイ十字の丘

街歩きメモ:リーガ

リーガでオーケストラ

街歩きメモ:パルヌ

物語 バルト三国の歴史

街歩き:タリン

タリンでミュージカル

街歩きメモ:ストックホルム

ストックホルムでザリガニを食べる

コペンハーゲンで食事

街歩きメモ:コペンハーゲン

北欧におけるSUSHIについて

北欧におけるSUSHIについて

 

北欧ではSUHIが普及している。

サンドイッチの具に、生ハムと同じ要領で生のサーモンがのっているのはどこでも見かけた。更に、そこまで頻繁ではないようだが、米を食べる習慣もあるようだ。であれば、さほど異質ではなかったのだろう※1。


New photo by 中尾泰治 / Google Photos

実際に、コペンハーゲンの高級スーパーで買った手巻き寿司とヘルシンキのSUSHI BARで食べた13巻の寿司セットを食べてみた。
ちなみに、手巻き寿司も握り寿司もどちらもSUSHIとして認識されているようだ。

レストランでは、本当はJAPANESEを全面に押した出した専門店より、SUSHIも扱っています、というお店で食べたかったが、最後の夜に歩いた範囲では、ヘルシンキには専門店しかなくて、琴が流れているような、中国人従業員のお店で食べた。


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まずスーパーの手巻き寿司。チーズ入があるのが目につく。SUSHIにはわさびは必要不可欠と認識されているらしく、醤油とわさびがついている。冷蔵保存されていているから仕方ないのだろうが、特にご飯(手巻き寿司でもシャリというのだろうか)は日本のスーパーで売られている手巻き寿司のクオリティからは程遠い。

ツナ、コンブ、と食べているうちに、具の種類、ごはんの固さからいって、これはコンビニおにぎりなのではないか。と気づく。実際、わさびはもちろん、醤油をつけないほうが自然に思えた。日本のコンビニおにぎりはもっと美味しいけれど。

ストックホルムとコペンハーゲンではセブンイレブンをよく見かけた。ストックホルムでは江坂のローソン並※2にあるのではないかと思ったほどだ。なので、得意のおにぎりの方面に進化させて提供してはどうだろうか。

単純に考えると、スーパーの手巻き寿司の醤油とわさびを抜けば良いと思われる。提供側も消費側にもメリットがある。この時、北欧の人は「SUSHIに醤油がないなんて」と違和感を覚えるのだろうか。

手始めに、手巻き寿司と握り寿司をどのように区別して認識しているかを把握する必要がありそうだ。この考察は帰りの飛行機の中で書いており、今回の旅行で確認できなかったのは残念である。


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レストランの方では、味や体裁は日本とさほど変わらなかった。JAPANESEを打ち出しているのだから当然かも知れない。ただ、サーモンが半分近くを占めているのには、にやてしまう。北欧では、生サーモンは広く親しまれている食材のようだから当然の結果なのだろう。

補注

※1 米、パン、餅、各種麺類といった炭水化物において、どれかで成立する組み合わせは大抵他でも成立すると思う。例えば、バター。パン、餅、麺類、ご飯、OKだ。(熱々ご飯のバター醤油を知らない人がいるのだろうか)変わりどころでは納豆も挙げられる。パンとの組み合わせに驚く人もいるが、相性は抜群である。ただし、こぼれ落ちやすく食べにくいという欠点はある。

※2 ローソン本部のあった江坂には、これでもか、というくらいにローソンがある。

幕末の日本滞在記を書いたデンマーク人の記録の本が面白かったので、同じノリで北欧における、sushiについて書いてみました。

https://www.amazon.co.jp/江戸幕末滞在記-講談社学術文庫-スエンソン/dp/406159625X

街歩きメモ:コペンハーゲン

ストックホルムから電車で5時間ほどでコペンハーゲンに着く。


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コペンハーゲンの第一印象は自転車。駅のホームから階段を登るとそこは公道で、自転車が大量に止めてある。大抵の場所で、自転車の走るレーンが歩道と同じくらいとられていて、そこをたくさんの自転車が走っていく。歩く人より自転車のほうが多いのではと思ったのも少なくない。

幼児を載せるカゴを引く、または前にくっつけて走っているのも多い。どちらも、道がある程度広くないと怖くて無理だろう。バルト三国やスウェーデン、フィンランドでも見かけたが、数からしてコペンハーゲンが圧倒的だった。東京もこうなったらいいのに。と思う。

街は、ストックホルムよりも雑多で、人通りの多い道ではブランド店も多く、東京やたぶん、世界中の大都市と近い。でも、古い建物が多く、煉瓦造りであったり、きれいな外観の色が多い。


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お店の雰囲気もストックホルム、フィンランド、バルト三国(と言ってもほとんど旧市街地しか見ていないが)の方がおしゃれなお店が多かった気がする。

ただ、雑貨屋で気になるお店は多い。また、ギャラリーも多く、アートが盛ん、という印象があった。

海が入り込んでいて、運河というのだろうかが街に入り込んでいる。夕方、たくさんの人が、そこで過ごす。なにかイベントがあるわけでないが、たくさんの人がごったがいし、ビールなんかを飲んでまったりしている。

ボートや船も出ている。貸しのモーター付きボート?の上で酒盛りをしている。泳いでいる人もいる。

ある美術金の特別展は日本をテーマにしたものだった。信楽焼の説明で、最近、デンマーク人の何人かも移り住んでいるらしい。陶磁器も多く、なんとなく、全体に日本と近いデザインも多い気がした。

日が暮れてゆく。ちなみに20時過ぎなのだが。今回の旅の国の中では南の方なので、これでも早い方だ。


コペンハーゲン / Google Photos

コペンハーゲンで食事

通りかかった、外の席で食べてる、甲殻類がとても美味しそうだった。ネットで調べたお店に向かっているところだったので、一度通り過ぎたのだが、ちょっと迷ったが戻った。


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店に入ると、事情がある様子で、
「今日は特別メニューしかない」
「席がいっぱいで、この共有席しか空いてない」
と申し訳なさそうに言う。って、この状況でこれ以上ない返事ですから。

確か、お笑いのマルコアンドピースのネタで、かに玉丼を、申し訳ないんですけれど、うちのカニ玉丼は、地元のタクシードラバーの方々に人気でこの時間でもいっぱいなんです、みたいなことを言い続けるのを思い出した。


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しかし、どれも美味しかった。店のお兄さんは一つ一つ丁寧に説明してくれた。ホタテの英語とかわらかなかったが、HOKKAIDOで採れる。日本人ならわかるはず。とか。


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ストックホルムでザリガニを食べる

今がザリガニのシーズンだと教えてもらって、たまたま撮った上の写真を見せたらこれだと。


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そのやり取りをしていて、市場で買って食べればいいと気づく。ストックホルムは物価が高いが、市場ならそれほどでもないだろう。

日曜日は休みだったので、今日、10:21の列車に乗る前に買うことにする。9:30に開くのでちょっと慌ただしくなるが、一度その気になったことは諦めがたい。

2種類試してみようとしたら、こっちがベストだと、売ってるおじさん。今がベストシーズンだと、嬉しそうに話してくれた。

スパイスがはいってる。名前はわからないけど、サンドイッチにも入ってた。列車の中で食べるつもりが、時間があったので駅のホームで食べてしまいました。美味しかった。

街歩きメモ:ストックホルム

タリンから船で18時間。5カ国目はスウェーデン、ストックホルム。

この街はまず建物が大きい。NORDIC MUSIUMも宮殿も、とにかく大きい。ついで、便座も高くて、座るとつま先がようやくつく程度。身長が高い人も多い。ステレオタイプで言うなら、バイキングの子孫というイメージがしっくりくる。


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セブンイレブンがやたら多い。日本と同じくらいの密度では?と思ってしまう。他のコンビニの形態のお店はほとんどない。中身はローカル仕様になってますが。経営戦略も当然あるのだろうけど、7−23という名前はグローバルにもわかりやすいのも強みかもしれない。

雑貨を扱うお店がとにかく気持ち良くて、雑貨好きにはたまらない。到着した金曜日は道にあるお店に入っては感動していた。扱っている商品からするとホームセンターそのものなお店も、とってもスッキリしている。照明を扱っているお店も多い。

Wikipediaの日本語版で、北欧でデザインが発達したのは、日照時間が短く寒い冬が長いため、家にいる時間が多く、そのために心地よさを追求したのではないか、とあったがそれはそうかもしれない。とにかく、心地よい。最も、北欧デザインが好きだからかも知れないが。


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世界で初めて20世紀初頭に作られた野外博物館はよくできている。民族衣装を着た人が、その当時の通りに、洗濯とか編み物とか、あるいはチーズづくりをしている。彼らは英語を話せ、知識も持っている。驚いたのはそれぞれの家の設定もしっかりできていることで、この家は裕福だから普通は部屋が一つしかないのですが、4つあってすべての部屋にストーブがあります、という説明はまだ序の口。

ウールのリサイクルをしているおばさんの説明では、まず布を切って、糸を一本ずつほどいて、その後水に溶かして・・と説明していて、一本ずつとは!って反応したら、「この家はとても貧しかったのです」って実感を持って説明してくれた。

イベントをやっていて、WE ARE SHOCKHOLMと言うものだった。街なかでも黒人の人もちらほら見かけれうのだが、夜ステージに来てみると、3グループ中、2つは黒人で、次の日の夜も黒人が出ていたのをみた。ビートが効いたダンスミュージックで、最初、こういうのが流行っているのか、と思ったが、WE ARE RESPEKT がスローガンになっていた。最近、スウェーデンで政治家の人種差別と取れる発言が問題となっていたらしいので、そのアンチテーゼということなのかもしれない。

移民問題に関しては、最近になってデンマークとの国境の審査は厳しくなっているようだ。致し方ないと思うけれど。


ストックホルム / Google Photos

タリンでミュージカル

タリン最後の夜、ミュージカルを観た。この度の期間中、せっかくだからずっと観たいと思っていたのだが、ヴィリニュスでは8月は休み、リーガでは売り切れていた。


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劇場に行って明日のを買いたいです、って言っても変えないのは当然と言えば当然かもしれないが。その点タリンでは幸運にも、15日に17日の最後1枚のチケットを買えた。最上階ので端っこで、照明がすぐ前にあって、いい席ではなかったけど。

エストニア語で話が進んでいて、舞台の上に電光掲示板に、ロシア語と英語の字幕がつく。会話では結構早く切り替わっていくから、ついていくのは大変だったが、まあ、物語の筋はそんなに複雑ではない。

ストーリー上でも踊って出し物をするシーンでは、踊りそのものがパフォーマンスになっていて会場も盛り上がる。観客も手拍子する。全体に、手拍子が好きなようだ。役者が手拍子を求めるシーンもあった。同じ絵を日本でも見たことがある。一番最後、終わった後も、ずっと手拍子だった。アンコールを要求しているように聞こえたけれど、どうなのだろう。

テーマは伝統と恋愛の葛藤、そして、ロシアの迫害。伝統に縛られず、恋愛で結婚相手を選ぶという真っ直ぐな愛というテーマ。それよりもまして、ロシア軍の描写はなかなかすごい。

前半の最後、結婚祝いの席で、みんな楽しく踊っているところにロシアの軍隊がやって来て、文字通り宴会の席をぐちゃぐちゃにする。私は前半と後半に分かれていることも知らなかったから、席を立っていくのを見て、まさかこれでおわりなのか!?と思ったが流石にそれはなかった。

エンディングでは、強制移住を命じられる。移住までの期間は3日。吹雪の中、移動する人々。小さな子供がおそらく死んだを思われる描写で幕が下りた。観客にはロシア人も多いはずなのだが、なかなかストレートな描写だ。帰り際年配の女性で目が潤んでいる人も見かけた。日本で言う心中物のようによくあるパターンなのかもしれない。

パルヌの土産物屋でEstanianの条件などと書いた絵葉書があった。
ひとつ、歩くの早いこと、から始まる。こういうのは大阪人、とか言うパターンもありそうだ。4,5個あったのだが、その中に、神は信じない、ただし、EUを信じる、というような記述があった。現在もロシアの脅威を感じているエストニアにとってEUの繁栄は切実な希望なのだろう。

一方で、バルト三国は、日本の地方と同じく、毎年万単位の人口流出に悩まされている、という側面もあるのだけれど。

街歩き:タリン

旧市街地に美しい街並みが残っている。
タリンの聖堂では高いところまで登れるところが結構あって、初日にバックパックを背負ったまま登って結構大変だった。眺望が素晴らしかったけど。


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雑貨屋には典型的な土産を扱っているところも多いが、作家の雑貨を扱っているところも多く、見ていて楽しかった。それから、やたら、割引の表示が目立った。50%オフとか言われてもわからんし、逆効果ではと思うが。

リーガと同じく観光地なので、ツアー客も多いし、自転車のトゥクトゥクや、観光ミニ列車?のようなものもあった。直行便のあるヘルシンキから近いこともあり、日本人も多い。馬車があったり、あるいは、中世の魔術師?の衣装を着た人たちが、宣伝に「レディースアンドジェントルマン」と叫び出したあたりをみていると、観光地化というかテーマパーク化という言葉が浮かんだ。
ストックホルムの野外博物館では、博物館化という言葉も当てはまるかもしれないと思った。


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初日、お昼頃についたのでバックパックをロッカーに預けようと思い、観光案内所で教えてもらった商業施設にあるというロッカーまで歩いた。
そうしたら、預ける流れでSMSへメッセージが飛ぶ仕組みになっていた。観光客が感じたのはそのくらいだったが、

エストニアはソ連時代にIT研究所があった影響もあって、電子投票、政府関係のドキュメントはすべて電子化など、ITの導入で世界の最先端を行っている、らしい。スカイプを筆頭にITのベンチャーも盛んで、人口あたりの起業家の数も、アメリカ、イスラエルと並ぶ。


タリン / Google Photos

物語 バルト三国の歴史

Kindleは便利で、unlimitedは旅先でとてもありがたい。もう少し周辺知識が知りたいと思って、「バルト三国」とかで検索すると何冊かただで読めた。unlimitedではなかったけど、「物語 バルト三国の歴史」は旅行をしていて一番知りたかった内容だった。事前に読んでいたら、なお良かったのですが。

リトアニアがラトビア、エストニアと雰囲気が違ったのは歴史的な経緯があったのですね。

ロシアの支配とナチスのユダヤ人迫害の記録はバルト三国のどの国にもみられた。そして、今でも、ロシアの脅威は消えていない。

農民ー地域貴族ー国の支配者という構造は日本でも類似していると思うが、言語が異なる人たちが支配する状況が長期間に渡るという状況は、ちょっと想像がつかない。

■メモ
・この地域はロシアとヨーロッパの接点として機能してきた。そのどちらかに接点を持ちたい勢力にとって重要な地域としてあり続けている。

・中世の都市同盟のハンザ同盟の東の一部として存在したことから、早くからヨーロッパの文化、経済を持っていた。

・ロシア、スウェーデン、ドイツ、ポーランドの勢力争いに常に巻き込まれてきた。

・13世紀にやってきたドイツ騎士団は、領地を持つ地元貴族となった。スウェーデンやロシアが支配していた時もその状況は変わらない。20世紀に至るまで7世紀に渡ってバルト・ドイツ人が支配層であり続けた。

・リトアニアは英雄の存在によってまとまっており、ドイツ騎士団を撃退した。その後、東方に領地を伸ばした。しかし、ポーランドと同盟し結びつきを深める中で、支配層の貴族は言語を含め、ポーランド化していった。結果として、エストニア、ラトビアのバルト・ドイツ人に当たる地位にポーランド化したリトアニア人が以後存在し続けることになった。

・リトアニアは発展のためにユダヤ人に自由を与えた。このため、北のエルサレムと言われるまでにユダヤ人が増えた。

・エストニア人、ラトビア人、リトアニア人は中世からずっと農民であり、支配層が住む都市にはいなかった。

・農奴開放(エストニアとラトビアでは農地は与えられなかったが)により、都市部に移住してきた。

・16世紀にプロテスタントに対抗するため、イエズス会はエストニア語、ラトビア語訳の聖書を普及させた。その後、バルト・ドイツ人のルター派が普及の際に教育にも熱心だったことから、19世紀後半の時点で、エストニア、ラトビアでは農村部でも9割近い識字率を誇っていた。一方、リトアニアは56%にとどまっていた。

・バルト・ドイツ人の貴族にとって、農民からの支持を得るための取り組みも必要だった。また、啓蒙思想も入ってきていた。こうした背景が農村部への教育に力を入れさせた。

・ロシアはバルト地域のドイツ人をヨーロッパの文化・技術を取り込む起点としたいという思惑から、当初バルト・ドイツ人に対する干渉が少なかった。

・バルト三国の国々が民族意識を覚醒するころ、この地域を支配していたロシアが彼らの動きに干渉しなかったのは、地元のバルト・ドイツ人の弱体化を望んだからとみられる。

・第一次大戦後、ドイツの敗戦・解体、ロシア革命により大国のパワーが空白となった。この期間にバルト三国は独立した。

・もともとリトアニアの首都ヴィリニュスには、リトアニア人はほとんど住んでおらず、ポーランド人、ユダヤ人が中心だった。ポーランドから見れば自分たちの土地という意識が強く、ロシア撤退後、ポーランドが占領した。

・第二次大戦後、難しい立ち位置に晒される。ソ連と冬戦争を戦ったフィンランドはヨーロッパ諸国の支援を得られなかった。バルト三国はソ連と不可侵条約を結ぶ。

・1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれるが、この際にバルト三国をソ連領とする密約があった。この条約が無効であり、その後のソ連支配は不当である、というのが現在に至るまでのバルト三国の主張である。

・ソ連の占領直後にナチスドイツが侵攻。占領後、多くのユダヤ人が犠牲になった。リトアニアでは17万人とも言われる。中世以来反映したユダヤ人社会は壊滅した。

・大戦後、再びソ連の支配が始まる。

・ソ連時代、ロシア移民の増加、出生率の低下が進んだ。1970年代、エストニア人、ラトビア人は高い民族意識を持っていながら、消滅する可能性すら高いという分析もされていた。

・ゴルバチョフはバルト三国を改革の先端とみなしていた。

・バルト三国の人民戦線組織は立ち上げ当初から連帯していた。

・1989年8月23日、独ソ不可侵条約から50年後に、ソ連への抗議として、タリン、リーガ、ヴィリニュスを結ぶ人の輪を作る。200万人が参加したとも言われる。