街歩きメモ:コペンハーゲン

ストックホルムから電車で5時間ほどでコペンハーゲンに着く。


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コペンハーゲンの第一印象は自転車。駅のホームから階段を登るとそこは公道で、自転車が大量に止めてある。大抵の場所で、自転車の走るレーンが歩道と同じくらいとられていて、そこをたくさんの自転車が走っていく。歩く人より自転車のほうが多いのではと思ったのも少なくない。

幼児を載せるカゴを引く、または前にくっつけて走っているのも多い。どちらも、道がある程度広くないと怖くて無理だろう。バルト三国やスウェーデン、フィンランドでも見かけたが、数からしてコペンハーゲンが圧倒的だった。東京もこうなったらいいのに。と思う。

街は、ストックホルムよりも雑多で、人通りの多い道ではブランド店も多く、東京やたぶん、世界中の大都市と近い。でも、古い建物が多く、煉瓦造りであったり、きれいな外観の色が多い。


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お店の雰囲気もストックホルム、フィンランド、バルト三国(と言ってもほとんど旧市街地しか見ていないが)の方がおしゃれなお店が多かった気がする。

ただ、雑貨屋で気になるお店は多い。また、ギャラリーも多く、アートが盛ん、という印象があった。

海が入り込んでいて、運河というのだろうかが街に入り込んでいる。夕方、たくさんの人が、そこで過ごす。なにかイベントがあるわけでないが、たくさんの人がごったがいし、ビールなんかを飲んでまったりしている。

ボートや船も出ている。貸しのモーター付きボート?の上で酒盛りをしている。泳いでいる人もいる。

ある美術金の特別展は日本をテーマにしたものだった。信楽焼の説明で、最近、デンマーク人の何人かも移り住んでいるらしい。陶磁器も多く、なんとなく、全体に日本と近いデザインも多い気がした。

日が暮れてゆく。ちなみに20時過ぎなのだが。今回の旅の国の中では南の方なので、これでも早い方だ。


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ストックホルムでザリガニを食べる

今がザリガニのシーズンだと教えてもらって、たまたま撮った上の写真を見せたらこれだと。


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そのやり取りをしていて、市場で買って食べればいいと気づく。ストックホルムは物価が高いが、市場ならそれほどでもないだろう。

日曜日は休みだったので、今日、10:21の列車に乗る前に買うことにする。9:30に開くのでちょっと慌ただしくなるが、一度その気になったことは諦めがたい。

2種類試してみようとしたら、こっちがベストだと、売ってるおじさん。今がベストシーズンだと、嬉しそうに話してくれた。

スパイスがはいってる。名前はわからないけど、サンドイッチにも入ってた。列車の中で食べるつもりが、時間があったので駅のホームで食べてしまいました。美味しかった。

街歩きメモ:ストックホルム

タリンから船で18時間。5カ国目はスウェーデン、ストックホルム。

この街はまず建物が大きい。NORDIC MUSIUMも宮殿も、とにかく大きい。ついで、便座も高くて、座るとつま先がようやくつく程度。身長が高い人も多い。ステレオタイプで言うなら、バイキングの子孫というイメージがしっくりくる。


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セブンイレブンがやたら多い。日本と同じくらいの密度では?と思ってしまう。他のコンビニの形態のお店はほとんどない。中身はローカル仕様になってますが。経営戦略も当然あるのだろうけど、7−23という名前はグローバルにもわかりやすいのも強みかもしれない。

雑貨を扱うお店がとにかく気持ち良くて、雑貨好きにはたまらない。到着した金曜日は道にあるお店に入っては感動していた。扱っている商品からするとホームセンターそのものなお店も、とってもスッキリしている。照明を扱っているお店も多い。

Wikipediaの日本語版で、北欧でデザインが発達したのは、日照時間が短く寒い冬が長いため、家にいる時間が多く、そのために心地よさを追求したのではないか、とあったがそれはそうかもしれない。とにかく、心地よい。最も、北欧デザインが好きだからかも知れないが。


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世界で初めて20世紀初頭に作られた野外博物館はよくできている。民族衣装を着た人が、その当時の通りに、洗濯とか編み物とか、あるいはチーズづくりをしている。彼らは英語を話せ、知識も持っている。驚いたのはそれぞれの家の設定もしっかりできていることで、この家は裕福だから普通は部屋が一つしかないのですが、4つあってすべての部屋にストーブがあります、という説明はまだ序の口。

ウールのリサイクルをしているおばさんの説明では、まず布を切って、糸を一本ずつほどいて、その後水に溶かして・・と説明していて、一本ずつとは!って反応したら、「この家はとても貧しかったのです」って実感を持って説明してくれた。

イベントをやっていて、WE ARE SHOCKHOLMと言うものだった。街なかでも黒人の人もちらほら見かけれうのだが、夜ステージに来てみると、3グループ中、2つは黒人で、次の日の夜も黒人が出ていたのをみた。ビートが効いたダンスミュージックで、最初、こういうのが流行っているのか、と思ったが、WE ARE RESPEKT がスローガンになっていた。最近、スウェーデンで政治家の人種差別と取れる発言が問題となっていたらしいので、そのアンチテーゼということなのかもしれない。

移民問題に関しては、最近になってデンマークとの国境の審査は厳しくなっているようだ。致し方ないと思うけれど。


ストックホルム / Google Photos

タリンでミュージカル

タリン最後の夜、ミュージカルを観た。この度の期間中、せっかくだからずっと観たいと思っていたのだが、ヴィリニュスでは8月は休み、リーガでは売り切れていた。


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劇場に行って明日のを買いたいです、って言っても変えないのは当然と言えば当然かもしれないが。その点タリンでは幸運にも、15日に17日の最後1枚のチケットを買えた。最上階ので端っこで、照明がすぐ前にあって、いい席ではなかったけど。

エストニア語で話が進んでいて、舞台の上に電光掲示板に、ロシア語と英語の字幕がつく。会話では結構早く切り替わっていくから、ついていくのは大変だったが、まあ、物語の筋はそんなに複雑ではない。

ストーリー上でも踊って出し物をするシーンでは、踊りそのものがパフォーマンスになっていて会場も盛り上がる。観客も手拍子する。全体に、手拍子が好きなようだ。役者が手拍子を求めるシーンもあった。同じ絵を日本でも見たことがある。一番最後、終わった後も、ずっと手拍子だった。アンコールを要求しているように聞こえたけれど、どうなのだろう。

テーマは伝統と恋愛の葛藤、そして、ロシアの迫害。伝統に縛られず、恋愛で結婚相手を選ぶという真っ直ぐな愛というテーマ。それよりもまして、ロシア軍の描写はなかなかすごい。

前半の最後、結婚祝いの席で、みんな楽しく踊っているところにロシアの軍隊がやって来て、文字通り宴会の席をぐちゃぐちゃにする。私は前半と後半に分かれていることも知らなかったから、席を立っていくのを見て、まさかこれでおわりなのか!?と思ったが流石にそれはなかった。

エンディングでは、強制移住を命じられる。移住までの期間は3日。吹雪の中、移動する人々。小さな子供がおそらく死んだを思われる描写で幕が下りた。観客にはロシア人も多いはずなのだが、なかなかストレートな描写だ。帰り際年配の女性で目が潤んでいる人も見かけた。日本で言う心中物のようによくあるパターンなのかもしれない。

パルヌの土産物屋でEstanianの条件などと書いた絵葉書があった。
ひとつ、歩くの早いこと、から始まる。こういうのは大阪人、とか言うパターンもありそうだ。4,5個あったのだが、その中に、神は信じない、ただし、EUを信じる、というような記述があった。現在もロシアの脅威を感じているエストニアにとってEUの繁栄は切実な希望なのだろう。

一方で、バルト三国は、日本の地方と同じく、毎年万単位の人口流出に悩まされている、という側面もあるのだけれど。

街歩き:タリン

旧市街地に美しい街並みが残っている。
タリンの聖堂では高いところまで登れるところが結構あって、初日にバックパックを背負ったまま登って結構大変だった。眺望が素晴らしかったけど。


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雑貨屋には典型的な土産を扱っているところも多いが、作家の雑貨を扱っているところも多く、見ていて楽しかった。それから、やたら、割引の表示が目立った。50%オフとか言われてもわからんし、逆効果ではと思うが。

リーガと同じく観光地なので、ツアー客も多いし、自転車のトゥクトゥクや、観光ミニ列車?のようなものもあった。直行便のあるヘルシンキから近いこともあり、日本人も多い。馬車があったり、あるいは、中世の魔術師?の衣装を着た人たちが、宣伝に「レディースアンドジェントルマン」と叫び出したあたりをみていると、観光地化というかテーマパーク化という言葉が浮かんだ。
ストックホルムの野外博物館では、博物館化という言葉も当てはまるかもしれないと思った。


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初日、お昼頃についたのでバックパックをロッカーに預けようと思い、観光案内所で教えてもらった商業施設にあるというロッカーまで歩いた。
そうしたら、預ける流れでSMSへメッセージが飛ぶ仕組みになっていた。観光客が感じたのはそのくらいだったが、

エストニアはソ連時代にIT研究所があった影響もあって、電子投票、政府関係のドキュメントはすべて電子化など、ITの導入で世界の最先端を行っている、らしい。スカイプを筆頭にITのベンチャーも盛んで、人口あたりの起業家の数も、アメリカ、イスラエルと並ぶ。


タリン / Google Photos

物語 バルト三国の歴史

Kindleは便利で、unlimitedは旅先でとてもありがたい。もう少し周辺知識が知りたいと思って、「バルト三国」とかで検索すると何冊かただで読めた。unlimitedではなかったけど、「物語 バルト三国の歴史」は旅行をしていて一番知りたかった内容だった。事前に読んでいたら、なお良かったのですが。

リトアニアがラトビア、エストニアと雰囲気が違ったのは歴史的な経緯があったのですね。

ロシアの支配とナチスのユダヤ人迫害の記録はバルト三国のどの国にもみられた。そして、今でも、ロシアの脅威は消えていない。

農民ー地域貴族ー国の支配者という構造は日本でも類似していると思うが、言語が異なる人たちが支配する状況が長期間に渡るという状況は、ちょっと想像がつかない。

■メモ
・この地域はロシアとヨーロッパの接点として機能してきた。そのどちらかに接点を持ちたい勢力にとって重要な地域としてあり続けている。

・中世の都市同盟のハンザ同盟の東の一部として存在したことから、早くからヨーロッパの文化、経済を持っていた。

・ロシア、スウェーデン、ドイツ、ポーランドの勢力争いに常に巻き込まれてきた。

・13世紀にやってきたドイツ騎士団は、領地を持つ地元貴族となった。スウェーデンやロシアが支配していた時もその状況は変わらない。20世紀に至るまで7世紀に渡ってバルト・ドイツ人が支配層であり続けた。

・リトアニアは英雄の存在によってまとまっており、ドイツ騎士団を撃退した。その後、東方に領地を伸ばした。しかし、ポーランドと同盟し結びつきを深める中で、支配層の貴族は言語を含め、ポーランド化していった。結果として、エストニア、ラトビアのバルト・ドイツ人に当たる地位にポーランド化したリトアニア人が以後存在し続けることになった。

・リトアニアは発展のためにユダヤ人に自由を与えた。このため、北のエルサレムと言われるまでにユダヤ人が増えた。

・エストニア人、ラトビア人、リトアニア人は中世からずっと農民であり、支配層が住む都市にはいなかった。

・農奴開放(エストニアとラトビアでは農地は与えられなかったが)により、都市部に移住してきた。

・16世紀にプロテスタントに対抗するため、イエズス会はエストニア語、ラトビア語訳の聖書を普及させた。その後、バルト・ドイツ人のルター派が普及の際に教育にも熱心だったことから、19世紀後半の時点で、エストニア、ラトビアでは農村部でも9割近い識字率を誇っていた。一方、リトアニアは56%にとどまっていた。

・バルト・ドイツ人の貴族にとって、農民からの支持を得るための取り組みも必要だった。また、啓蒙思想も入ってきていた。こうした背景が農村部への教育に力を入れさせた。

・ロシアはバルト地域のドイツ人をヨーロッパの文化・技術を取り込む起点としたいという思惑から、当初バルト・ドイツ人に対する干渉が少なかった。

・バルト三国の国々が民族意識を覚醒するころ、この地域を支配していたロシアが彼らの動きに干渉しなかったのは、地元のバルト・ドイツ人の弱体化を望んだからとみられる。

・第一次大戦後、ドイツの敗戦・解体、ロシア革命により大国のパワーが空白となった。この期間にバルト三国は独立した。

・もともとリトアニアの首都ヴィリニュスには、リトアニア人はほとんど住んでおらず、ポーランド人、ユダヤ人が中心だった。ポーランドから見れば自分たちの土地という意識が強く、ロシア撤退後、ポーランドが占領した。

・第二次大戦後、難しい立ち位置に晒される。ソ連と冬戦争を戦ったフィンランドはヨーロッパ諸国の支援を得られなかった。バルト三国はソ連と不可侵条約を結ぶ。

・1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれるが、この際にバルト三国をソ連領とする密約があった。この条約が無効であり、その後のソ連支配は不当である、というのが現在に至るまでのバルト三国の主張である。

・ソ連の占領直後にナチスドイツが侵攻。占領後、多くのユダヤ人が犠牲になった。リトアニアでは17万人とも言われる。中世以来反映したユダヤ人社会は壊滅した。

・大戦後、再びソ連の支配が始まる。

・ソ連時代、ロシア移民の増加、出生率の低下が進んだ。1970年代、エストニア人、ラトビア人は高い民族意識を持っていながら、消滅する可能性すら高いという分析もされていた。

・ゴルバチョフはバルト三国を改革の先端とみなしていた。

・バルト三国の人民戦線組織は立ち上げ当初から連帯していた。

・1989年8月23日、独ソ不可侵条約から50年後に、ソ連への抗議として、タリン、リーガ、ヴィリニュスを結ぶ人の輪を作る。200万人が参加したとも言われる。

街歩きメモ:パルヌ

リーガの次は、4カ国目、エストニアのパルヌに。ビーチがある保養地。最初の日、ちょうどお祭りだった。踊る人、歌う人、売る人、参加する人、文字通り老若男女だった。


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パルヌの現代美術館はエストニアに最も前衛的と地球の歩き方に書いてあったが、お祭りにも自由な雰囲気が全体にあった。

民族衣装を着たダンスは面白かった。森をイメージした中で男性のみ、女性のみ、一緒に踊る、途中、木に男性が隠れる、などいくつかのパーツに分かれていた。

これは昔は、男女の出会いの場となるようなお祭りイベントから始まったダンスだったのだが、最近は若手の踊りてがなく高齢化が進み・・などと、○KBに慣れていると、こういう場合は若い女性をイメージしてしまい、中年で足も太く、みな強そうな姿を見て、最初、思った。

ただ、後から子供も出てきて、胴上げしたりしたり、肩車したりしていた。それに近くのポスターでどうもこの団体が別のところでも出演している風なものをみると、元ネタがあるにしても、半分以上は創作なのかも。

最後に、あまり大きくないテントに、子供含めて20人くらいが駆け込んでいって、リアルのサザエさんのエンディングだと思った。

翌日は朝海岸へ。ビーチ以外は湿原が海岸沿いに広がっていた。海は茶色だった。


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街を歩いていると、スケボー(手で持つところがあるから正式には別の名前かも)の大会?が行われていた。初めてだったがなかなか面白く、ずいぶん長居した。写真は起動が遅いスマホでは絶望的で、せっかくいいシーンが撮れそうでもすぐに反応しなかったり、この辺はAndroidではきつく、イライラしてしまう。スケボーの場合は、失敗もあるので動画にしてもまた難しい。

パルヌを立つ朝、外に出たらいい天気だった。ほとんど時間がなかったのだが、海岸に行ってみた。やっぱり、ビーチは晴れているのがいい。


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リーガでオーケストラ

ルンダーレ宮殿を見て夕方リーガに戻ってきた。最後の夜になったのだが、金曜日のこの日から3日間リーガでは大きなお祭をやっていた。会場は街中にあちこちある。


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その中で、オープニングセレモニーというのにいってみた。会場はまあまあ大きいのだが、開始時間には準備された椅子は全て埋まっていて、その周辺にある、公園にもとからあるベンチに座ることにした。観客は文字通り老若男女。

オーケストラの演奏、歌手と演奏、バレエと、映画をテーマにしてプログラムが進んでいく。

隣のベンチに座っているおっちゃんは、自分の前に立ち見の人がいると邪魔だといちゃもんをつける、日本でも見かけるタイプのおっちゃんであったのだが、オペラ歌手が出てくるときに、興奮して拍手で迎え、歌詞を一緒に口ずさんでいた。

日本のおっちゃんが、オペラ歌手にこのような反応をすることはちょっと考えられないな、と最初思った。でも、似たような光景を見たことがあった気がして、少し考えると、それは江坂の居酒屋で有線で、よく知った歌手の演歌が流れ始めたときの反応そのものだった。

映画に疎い自分がちょっともったいないと思った。

チャップリンの映画の曲を流す時、男女のダンサーが交互に「動かなくなる」という仕掛けを演じていた。最後、女性ダンサーは動かなくなった男性をコミカルに運んでいった。

2時間以上に渡るプログラムの最後のオーケストラの演奏には、ラップというのだろうか、男性の声を入れたり、シンバルを効果音のように鳴らしたりと、おそらくはかなり新しいやり方も取り入れているように見えた。あれは、ミュージカルとかの効果音とかなのかなと後からは思った。


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アンコール後、人が減ったので、近くの席に座って観た。震えた。

次の日、少し録画したスターウォーズのテーマを聴いた時、贅沢な時間だったんだなと改めて思った。


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街歩きメモ:リーガ

交通の要所として、古くから栄え、現在もバルト三国でも一番人口の大きい都市。旧市街地には古い建造物がたくさん残っている。新しい高い建物も多く、リトアニアの首都ヴィリニュスとは雰囲気が違う。

ツアー客もたくさんいた。

建造物の中では、ステンドグラスが一番印象に残った。

大きな市場があって、ワクワクする。花、野菜、肉、燻製、チーズ、後はなんでも。

大学の生協とかのような、食堂スタイルのお店があって一人旅の身にはとてもありがたかった。そして美味しかった。

雑貨屋には綿の製品も一緒に並んでいるパターンが多かった。日本の雑貨屋でもあるのだが、綿のマフラーとかが並んでいる雑貨屋さんは、可愛い方面によりすぎていて苦手なのだけど、リーガでいくつか見た雑貨屋にも同じ雰囲気を感じてしまった。

夜がこの街の特徴だと思う。たくさんの店で外でライブをやっているので、旧市街地を歩いているとあちこちから音楽が聞こえてくる。

2日目の夜に地球の歩き方情報で、少し中心から外れたところにある「最近若者で流行りのエリア」に行ってみた。京都や、あるいは大阪の中崎町のエリアにありそうな、こじゃれた小さなお店がいくつか並んでいた。そのうちの1軒でライブの準備をしていた。内輪感があって、少し入りにくい雰囲気があったのは日本でも同じだが、入ってみると、始まる頃には20人以上になった。


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シャウレイ十字の丘

リトアニアのシャウレイには十字架の丘という、ソ連時代に強制連行などで犠牲になった人の家族が建てた十字架が無数にある場所がある。


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街の中心からバスで15分くらいの場所にあるのだが、バス停にはなんの目印もない。そこを1キロくらい歩く。同じバスには、10人くらいの観光客がいた。

東洋系の人と西洋系の人が話しているところに加わる。一人はインドネシア人で、オックスフォードで学んでいるらしい。去年だけで20カ国を回ったというから、何しに来たんだという気がしないでもない。もう一人はドイツ人の女性。この人はドイツ人らしく、ちゃんと調べてきていたので、2人は彼女についていく感じになる。

地球の歩き方によれば、ソ連はブルドーザーで破壊したり、水没させようという計画もあったというから、そうとう巨大なものかと思っていたが、想像よりは小さかった。もっとも、それでも十分大きいけれど。

商売で、観光客が十字架を買って埋めることができるため、新しい十字架は必ずしも悲しみや哀悼の対象ではなくなっている。

そのためか、その場にある重みのようなものはそこまで感じなかった。木製のため、古いものは朽ちていくという特性もあるかもしれない。

ドイツ人とはリーガ行きのバスの途中まで一緒だった。途中までというのは、私が途中下車をしたからで、降りた街が思った以上に田舎でかなり焦ったという出来事はあった。

インドネシア人とはリーガの街なかでベンチに座っているときに、まったく偶然に再会して驚いた。