融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論

「融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」を読んだ。
https://goo.gl/azTPQj

昨年、「フラットデザインで考える-新しいUIデザイン 」を読んで、フラットデザインが広がっている根本には、スキューモフィズムからの脱却があるということを理解した。スキューモフィズムとは、現実にあるもののメタファーをコンピュータに適用することで、無意識にその機能を使うことができるようにするという考え方だ。

「融けるデザイン」は、その先にあるものは何か、ということについて突きつけめて説明されている。非常に興奮させる本でした。

フラットデザインについての考察は、去年作ったスライドにまとめているのでよろしければ。
*UXとフラットデザイン
http://www.slideshare.net/ntaiji20/ux-49363387

以下、メモ。

■モノの本質は「動き」と「境界」にある
物質的なものとデジタルを分ける必然性がなくなった、と筆者は主張する。それでは、モノの本質とは何なのか?

生物学者ギブソンの生態心理学によれば、人間はモノを認識するとき、周囲の環境情報を利用しているという。
Moving roomという有名な実験がある。
壁と床が切り離された環境があり、周囲の壁が数ミリ浮いた状態になっていて、壁が前後に動くように作られた部屋で、実験参加者はその部屋に入り、ただ直立してもらう。
この状態で、壁を前後に動かすと、参加者は意識しないが壁の動かしと体が同調して動いてしまう。
無意識のうちに周囲の情報をかぎ取って行動している、ということを証明している。

モノそのものよりも、動きが重要なのだ。動くことで見え方は変化するが、その変化の中で変化しない性質が知覚される。物は境界からなりたっていて、境界は動きの中で現れるということを筆者は、textureworldという実験動画で表現している。
https://www.youtube.com/watch?v=drW9p0lz20Q
確かに、境界線があるからモノが浮き上がるのではなく、動いているから輪郭が浮き上がってくることがわかる。

つまり、モノは動きの中で認識されており、時間軸があって初めて存在している。したがって、モノを設計する場合、持続の中の調整、すなわちインタラクションと捉えることが大事である。
(この辺はちゃんと腹落ちしていないです)

■身体性
身体性には、生物としての身体と知覚原理としての身体がある。道具を考える上では知覚原理が重要となる。
この身体はまさに自分のものであるという、自己帰属感とこの身体の運動を引き起こしたのはまさに自分自身であるという運動主体感を持つとき身体として知覚される。運動主体感覚は生物としての身体に限定されない。道具に運動主体感を持たせることができれば、筆者の目指す「融けるデザイン」になる。

■知性が宿るのは環境とのインタラクションにある
入来篤史氏の道具をサルに使わせた実験によれば、大きな脳を持った人間が新しい生活方法を見出したというよりは、むしろ道具の使用、地上生活、狩猟生活が人間の脳を大きくさせた。

■インターフェース
・モノの本質は、周囲との境界、インターフェースにある。
・身体性を考えるとき知覚される身体とモノの境界、インターフェース。
・身体全体が環境とのインターフェースである。

■経験
経験は、環境とのインタラクションであり、インターフェースを通して行われている。

「いいデザインは形でしょうか。いい時間だと思いませんか?」(シャープの液晶テレビのCM)
設計するのは「よい時間」=経験
経験価値によって重要なのは、新しい体験の提案ではなく、知っていたことを気づかせること。(深澤直人)

■インターフェースの進化
1.道具のインターフェース
2.機械のインターフェース
3.コンピュータのインターフェース
4.インターネットのインターフェース

スキューモフィズムはコンピュータの時代のインターフェースで役立つ考え方だった。もっというと、機械からインターネットのインターフェースの移行期だったともいえるかもしれない。

*インターネットは世界に一つしかない。だから、「the internet」
*今までは1つのモノとのシングルインタラクションを考えればよかった。複数のインターフェースとやり取りする、バイラルインタラクションへ。
*メタメディア。特定のメディアに対するデザインから、複数のメディアでのインタラクションデザインへ。
*経験価値の設計の上で、人間の行動がボトルネックになりやすい。
*テクノロジーができるから、人間がやるという発想の転換が必要
*あなたのサービスは生活のごく一部であり、競合する時間消費の方法は無数にある
*プログラミングは、メタデザイナーが自らがデザインしたインタラクションを表現する手段である

*使いやすい時間
時間に合わせて提供する。

■筆者が設計したプロダクト
*CastOven。オーブンで温めている時間にあったコンテンツ(YouTube)を提供する。

*smoon。計量が不要なスプーン。レシピサイトから情報を取得して必要な分量を掬えるようにスプーン自身が変化する。

北欧におけるSUSHIについて

 

北欧ではSUHIが普及している。

サンドイッチの具に、生ハムと同じ要領で生のサーモンがのっているのはどこでも見かけた。更に、そこまで頻繁ではないようだが、米を食べる習慣もあるようだ。であれば、さほど異質ではなかったのだろう※1。


New photo by 中尾泰治 / Google Photos

実際に、コペンハーゲンの高級スーパーで買った手巻き寿司とヘルシンキのSUSHI BARで食べた13巻の寿司セットを食べてみた。
ちなみに、手巻き寿司も握り寿司もどちらもSUSHIとして認識されているようだ。

レストランでは、本当はJAPANESEを全面に押した出した専門店より、SUSHIも扱っています、というお店で食べたかったが、最後の夜に歩いた範囲では、ヘルシンキには専門店しかなくて、琴が流れているような、中国人従業員のお店で食べた。


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まずスーパーの手巻き寿司。チーズ入があるのが目につく。SUSHIにはわさびは必要不可欠と認識されているらしく、醤油とわさびがついている。冷蔵保存されていているから仕方ないのだろうが、特にご飯(手巻き寿司でもシャリというのだろうか)は日本のスーパーで売られている手巻き寿司のクオリティからは程遠い。

ツナ、コンブ、と食べているうちに、具の種類、ごはんの固さからいって、これはコンビニおにぎりなのではないか。と気づく。実際、わさびはもちろん、醤油をつけないほうが自然に思えた。日本のコンビニおにぎりはもっと美味しいけれど。

ストックホルムとコペンハーゲンではセブンイレブンをよく見かけた。ストックホルムでは江坂のローソン並※2にあるのではないかと思ったほどだ。なので、得意のおにぎりの方面に進化させて提供してはどうだろうか。

単純に考えると、スーパーの手巻き寿司の醤油とわさびを抜けば良いと思われる。提供側も消費側にもメリットがある。この時、北欧の人は「SUSHIに醤油がないなんて」と違和感を覚えるのだろうか。

手始めに、手巻き寿司と握り寿司をどのように区別して認識しているかを把握する必要がありそうだ。この考察は帰りの飛行機の中で書いており、今回の旅行で確認できなかったのは残念である。


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レストランの方では、味や体裁は日本とさほど変わらなかった。JAPANESEを打ち出しているのだから当然かも知れない。ただ、サーモンが半分近くを占めているのには、にやてしまう。北欧では、生サーモンは広く親しまれている食材のようだから当然の結果なのだろう。

補注

※1 米、パン、餅、各種麺類といった炭水化物において、どれかで成立する組み合わせは大抵他でも成立すると思う。例えば、バター。パン、餅、麺類、ご飯、OKだ。(熱々ご飯のバター醤油を知らない人がいるのだろうか)変わりどころでは納豆も挙げられる。パンとの組み合わせに驚く人もいるが、相性は抜群である。ただし、こぼれ落ちやすく食べにくいという欠点はある。

※2 ローソン本部のあった江坂には、これでもか、というくらいにローソンがある。

幕末の日本滞在記を書いたデンマーク人の記録の本が面白かったので、同じノリで北欧における、sushiについて書いてみました。

https://www.amazon.co.jp/江戸幕末滞在記-講談社学術文庫-スエンソン/dp/406159625X

コペンハーゲンで食事

通りかかった、外の席で食べてる、甲殻類がとても美味しそうだった。ネットで調べたお店に向かっているところだったので、一度通り過ぎたのだが、ちょっと迷ったが戻った。


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店に入ると、事情がある様子で、
「今日は特別メニューしかない」
「席がいっぱいで、この共有席しか空いてない」
と申し訳なさそうに言う。って、この状況でこれ以上ない返事ですから。

確か、お笑いのマルコアンドピースのネタで、かに玉丼を、申し訳ないんですけれど、うちのカニ玉丼は、地元のタクシードラバーの方々に人気でこの時間でもいっぱいなんです、みたいなことを言い続けるのを思い出した。


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しかし、どれも美味しかった。店のお兄さんは一つ一つ丁寧に説明してくれた。ホタテの英語とかわらかなかったが、HOKKAIDOで採れる。日本人ならわかるはず。とか。


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物語 バルト三国の歴史

Kindleは便利で、unlimitedは旅先でとてもありがたい。もう少し周辺知識が知りたいと思って、「バルト三国」とかで検索すると何冊かただで読めた。unlimitedではなかったけど、「物語 バルト三国の歴史」は旅行をしていて一番知りたかった内容だった。事前に読んでいたら、なお良かったのですが。

リトアニアがラトビア、エストニアと雰囲気が違ったのは歴史的な経緯があったのですね。

ロシアの支配とナチスのユダヤ人迫害の記録はバルト三国のどの国にもみられた。そして、今でも、ロシアの脅威は消えていない。

農民ー地域貴族ー国の支配者という構造は日本でも類似していると思うが、言語が異なる人たちが支配する状況が長期間に渡るという状況は、ちょっと想像がつかない。

■メモ
・この地域はロシアとヨーロッパの接点として機能してきた。そのどちらかに接点を持ちたい勢力にとって重要な地域としてあり続けている。

・中世の都市同盟のハンザ同盟の東の一部として存在したことから、早くからヨーロッパの文化、経済を持っていた。

・ロシア、スウェーデン、ドイツ、ポーランドの勢力争いに常に巻き込まれてきた。

・13世紀にやってきたドイツ騎士団は、領地を持つ地元貴族となった。スウェーデンやロシアが支配していた時もその状況は変わらない。20世紀に至るまで7世紀に渡ってバルト・ドイツ人が支配層であり続けた。

・リトアニアは英雄の存在によってまとまっており、ドイツ騎士団を撃退した。その後、東方に領地を伸ばした。しかし、ポーランドと同盟し結びつきを深める中で、支配層の貴族は言語を含め、ポーランド化していった。結果として、エストニア、ラトビアのバルト・ドイツ人に当たる地位にポーランド化したリトアニア人が以後存在し続けることになった。

・リトアニアは発展のためにユダヤ人に自由を与えた。このため、北のエルサレムと言われるまでにユダヤ人が増えた。

・エストニア人、ラトビア人、リトアニア人は中世からずっと農民であり、支配層が住む都市にはいなかった。

・農奴開放(エストニアとラトビアでは農地は与えられなかったが)により、都市部に移住してきた。

・16世紀にプロテスタントに対抗するため、イエズス会はエストニア語、ラトビア語訳の聖書を普及させた。その後、バルト・ドイツ人のルター派が普及の際に教育にも熱心だったことから、19世紀後半の時点で、エストニア、ラトビアでは農村部でも9割近い識字率を誇っていた。一方、リトアニアは56%にとどまっていた。

・バルト・ドイツ人の貴族にとって、農民からの支持を得るための取り組みも必要だった。また、啓蒙思想も入ってきていた。こうした背景が農村部への教育に力を入れさせた。

・ロシアはバルト地域のドイツ人をヨーロッパの文化・技術を取り込む起点としたいという思惑から、当初バルト・ドイツ人に対する干渉が少なかった。

・バルト三国の国々が民族意識を覚醒するころ、この地域を支配していたロシアが彼らの動きに干渉しなかったのは、地元のバルト・ドイツ人の弱体化を望んだからとみられる。

・第一次大戦後、ドイツの敗戦・解体、ロシア革命により大国のパワーが空白となった。この期間にバルト三国は独立した。

・もともとリトアニアの首都ヴィリニュスには、リトアニア人はほとんど住んでおらず、ポーランド人、ユダヤ人が中心だった。ポーランドから見れば自分たちの土地という意識が強く、ロシア撤退後、ポーランドが占領した。

・第二次大戦後、難しい立ち位置に晒される。ソ連と冬戦争を戦ったフィンランドはヨーロッパ諸国の支援を得られなかった。バルト三国はソ連と不可侵条約を結ぶ。

・1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれるが、この際にバルト三国をソ連領とする密約があった。この条約が無効であり、その後のソ連支配は不当である、というのが現在に至るまでのバルト三国の主張である。

・ソ連の占領直後にナチスドイツが侵攻。占領後、多くのユダヤ人が犠牲になった。リトアニアでは17万人とも言われる。中世以来反映したユダヤ人社会は壊滅した。

・大戦後、再びソ連の支配が始まる。

・ソ連時代、ロシア移民の増加、出生率の低下が進んだ。1970年代、エストニア人、ラトビア人は高い民族意識を持っていながら、消滅する可能性すら高いという分析もされていた。

・ゴルバチョフはバルト三国を改革の先端とみなしていた。

・バルト三国の人民戦線組織は立ち上げ当初から連帯していた。

・1989年8月23日、独ソ不可侵条約から50年後に、ソ連への抗議として、タリン、リーガ、ヴィリニュスを結ぶ人の輪を作る。200万人が参加したとも言われる。

ペテロの葬列 宮部みゆき

宮部みゆきはとても好きな作家で、いつも引き込まれて、先へ先へ読みたくなってしまう。ミステリーはほぼすべて読んでいる。

ほぼ、というところが少し厄介でもある。たまに未読のをみつけるとうれしくなる。それで、一度、読んでないと思って途中まで読み進めていて、読んだことがあるって気づいたことがある。

誰かが書いてたけど、自分が気に入っていると知っている小説を内容を忘れてもう一度楽しめるのは幸福なのかもしれないが。

「ペテロの葬列」は初版が2013年なので、まさか読んでいないはずだが、主人公が同じ「誰か」「名もなき毒」は両方読んでいることもあって、どうも同じテーマを扱っているのを読んだ気もしながら読んでいた。

ラストは予想外だった。いくらなんでも、このラストを読むのが二回めであることはないと信じたい・・主人公の杉村さん、可哀そすぎる。

でも、状況を整理すれば、行くべき着地点なのかもしれない。

宮部作品の主人公やその周辺の人には、正義感にあふれ、日々の生活をちゃんとし、責任感を持った、特に女性が登場する。そういう市井の人たちが世の中を回しているのよ、と語りかけてくる。まったくその通りと思う。

ただ、過剰ともいえる正義感が息苦しい時がある。
マンガ「るろうに剣心」の元新撰組の斉藤一の「悪即斬」のような。人間はいつでも悪になりうる、というのは宮部作品のテーマだと思うが、悪というものが明確に定義できるものとして存在しているように書かれるのは少しひっかかるときがある。

それと、昔はちゃんとしてたけど、若い人ってどうなのよね、という見解がよく出てくるし、今の世の中は悪くなっているということが前提な記述も多くて、そこは筆者に反発してしまう。

で、「ペテロの葬列」の結末をこういうふうに持ってくるっていうことは、基本的に昔ながらの価値観に立つだけじゃないっていうことだとも受け取っていいのかもしれないと思った。相手側視点の記述が少ないので、何とも言えないけれど。

ユーザーストーリーマッピング

2年前に、「ドメイン駆動開発」の本をやはり年末年始に読んだとき、私としては、筆者のおそらく一番の動機であろう、「ドメイン(ソフトウェアの対象とする領域)に対する、システム設計者の深い洞察からくる提案が、ユーザ側に本質的な利益を提供しうる」というような内容に興奮した。

そして、パッケージ製品、ないしサービスを開発・運用している人間としてはかくありたい、と思った。

ただ、この本からは実践には直接つなげにくかった。「コンテキストマップを書きなさい」と書いたあったけれど、いまいちイメージがわいてこない。

その後、今年になって、「スクラムブートキャンプ」を読んだ。ワークショップの内容をまとめたというこの本はわかりやすく、実際に運用にのせていける気がした。やるべき作業=バックログをリスト化して、優先順位を決め、一定期間=スプリントで上から順にタスクをつぶしていけ、という考え方だ。

ところが、少し気を抜くとバックログは膨張していって、収集がつかなくなる。そうこうしていると、全体が見えづらくなってしまい、結局、運用に乗せられなかった。

そして本書。バックログがたまってしまう問題や、ビジネスの視点と実装の視点の葛藤など、ありがちな罠について真正面から説明されている。

小さく作って、対象領域について学びながら最少の投資で学習とスケールを続ける、というリーンスタートアップの具体的な方法論といえる。

ちなみに、重要な考え方にMVPがある。Minimum Viable Product (本書では:望まれる成果を実現できる最小の製品リリース)が正しいのだが、最初私はなんとなく、Most Valuable Product だと思っていた。

ありがちな、ダメな見方だ。いつだって、作るべき内容に対してリソースは圧倒的に足りないのだから。

全体を通じて、一つ一つが身に染みて、うなづきながら読みました。

職業としてのシステム開発者

村上春樹が自分の職業観、どんなことを考えて執筆をしてきたかということを語っている、「職業としての小説家」、とても面白かった。
29歳の時、神宮球場でヤクルト戦を見ているとき、ふと小説を書こうと思ったらしい。

ほんまかいな。と思ってしまうが、いかにも村上春樹的なエピソードだ。

この本によれば、村上春樹は、小説家「村上春樹」がいかに能力を伸ばしていくか、ということについて非常に戦略的だったようだ。

戦前・戦中の世代のような強烈な体験はない自分がいかにして表現力を手に入れるかという答えとして、軽い文体を手に入れるために、いったん英語で書いてをそれを翻訳したという。よく、村上春樹の文章は翻訳調だといわれるけれど、それは当然のことだった。

最初の小説でいきなり賞をとるのだが、本人としては理想には程遠い、未熟な文章だと認識していて、10年、20年と続けていけばその理想に近づいていくだろう、と考えていた。

そのために、依頼されて小説を書くことは一切せずに、常に自分のペースで書いていたという。どういう環境であれば、自分はパフォーマンスを発揮できるのか、ということに細心の注意を払っていた。体力も重要と考えて、40代に入ってからランニングを欠かしていないとか。

その代り、稼ぐための仕事は翻訳をしていたということ。バブルの時には、ちょっと出かけて書くだけで随分お金をもらえる仕事もたくさんあったそうだが、そんな環境では力を伸ばせないと考えて海外に行ったと。

常に日常生活の中でふと気になったことを心にとめておく。判断や結論は出さないがストックして残す。ストックがたまったら、書き始める。小説を書き始めたら、数か月間、毎日規則正しく、4,5時間集中して書く。小説を書いているときもそうでない時もランニングは欠かさない。

自分で納得ができるところまで推敲も終わったら、まず奥さんに読んでもらう。直接的な指摘をもらう。指摘の中身が問題なのではなく、指摘されるということはその箇所になんらかの問題があるということだ、ととらえるらしい。だから、指摘された箇所は、変え方はともかく、絶対に修正するという。

そうやって練りあがってから、出版社の人とのやりとりを始めるという。
そういうスタイルも確立させていったという。

* 

おそらく一番大事な点は、このやり方を、10年、20年と続けることができたということ。

コンビニには「5分でわかるコツ!」なんて本が並んでいる。あなたが5分で得られるものは、ほかの人だって5分で得られるんだから、大した価値はないのだが。それより、「10年かからないと得られないもの」で、「私は10年続けることができる」ということこそが大事だ。それなら、そうそうはほかの人にはできない。いろんな仕事をしながら、そういう対象を見つけることができたら幸せだ。

* *

どんな職種であれ、仕事には、自分のキャリアを伸ばすことができる仕事と、ルーチンの仕事がある。世の中の仕事の成分を分析すれば、大部分は後者の仕事であるといえるので、ルーチンの仕事を馬鹿にしてはいけない。とはいっても、個人のキャリアを考えれば、自分の実力を伸ばすことができる仕事をどれだけできるか、が大事だ。

そういう、「よい仕事」を運よくもらっても、その内訳で言うと、事務処理だ、雑務だ、打ち合わせもセットになってくるし、よい仕事を受けるためにとる仕事というのもある。

いずれにしても自分の専門性がどの領域かを認識し、その中でいかに自分を成長させていくのか、ということが大事なのだと思う。

* * *

人はいい加減に批判する。当初村上春樹は、日本では売れてるけど、海外では売れっこないなんて批判されていたという。ところが海外で売れると、前のことはコロッと忘れて批判する。まともに相手にしていたら、やっていられないと。

前に業務システム設計の独自の方法論を提唱している渡辺さんのブログを読んでいるとき、批判的な反応も目にした。いわく、この人は大規模開発を知っているのか? これは現場で通用しない、などなど。

おそらく、コメントしている人より渡辺さんの方が現場に通じていると思われたが、そこは問題ではない。

現実社会というのは矛盾に満ちているので、批判しようと思えば、いくらでも批判できる。だから、批判が存在するということ自体は問題にはならない。その人の立っている状況と、視点と、目指している点を明確にして初めて、その批判の妥当性を検討できる。

結局のところ、自分で生きていく、という覚悟をしている人は、その矛盾が多い中で何とかやっていっているのであって、そうでない、現実と向き合っていない人は、あらを探して、適当なことを言ってるだけ、という構図にみえる。

* * *

というのが長い前置きになる。

最近、XPの本を読む、という読書会に参加した。XPというと、システム開発の業界では、アジャイル、スクラムあたりの言葉と一緒に語られているが、その中身は実際のところ、ちゃんと理解されていないと思う。

かくいう私も、「スクラムっぽいもの」という程度の理解だった。

ところが全然違うものだった。20年前に出版されたXPの本は、今でも色褪せないものだった。でも不幸なことに日本語訳は、仮定法をことごとく誤訳していて、金融の話題では知識がないため、誤訳の多い、非常に読みにくいものになっているらしい。

読書会では、IT勉強宴会のメンバーの杉本さんが、自分で訳した、という翻訳をレジュメにして進めていたのだが、とても丁寧な訳ということもあり、私はケント・ベックさんのファンになってしまった。

緻密に練り上げられ、おそらく何度もリファクタリングされたであろう文章だった。

* * * *

そこではまず、システム開発のビジネスというものはどういう状況に置かれているか、ということが分析される。重要な点は、アジャイルという文脈ではエンジニア側の視点に偏りがちだが、XPではまずビジネス側の事情を重視している。

プログラムで稼ぐことを目的にしているのだから、当たり前といえば当たり前の話だ。

そういう前提の中で、エンジニアが幸せに力を発揮できる、極限までの最善の状況はどういう形だろうか?ということをXPはテーマにしている。

具体的なことを少し書くと、不確実性とどう向き合うか、が最も大事なポイントになる。

話が盛り上がって、あるいはエンジニアが作りたくなって、作ってみたものの、大した価値の無い機能にしかならなかった、というのは、開発現場あるあるだ。耳が痛い、あるある過ぎる話だ。

どうしたら、そういう無駄を最小限に抑えられるだろうか?

なおかつ、エンジニアの作りたい、という気持ちも両立させるためにはどうしたらいいだろうか?

そのために必要な条件が高らかに宣言されていく(ように読めた)。

20年前に書かれたとは思えない、現代にも通用する知見ばかりだ。

もっとも、ここで書かれていることになじみがあるのは、私がふれてきた言説がこの本に影響されている、という側面もあるのだろう。

* * * * *

XPは、もちろん、完璧ではないのだろうけど、システム開発のあるべき姿、理想像を提示している。

私のように小さいけれど、自社のプロダクトを開発・運営している人にとっては特に大きく頷いてしまう話ばかりだ。
そして、その理想像に至るまでの道のりも遥か先であるということもわかっている。

恥ずかしながら、CIの自動化というものを実現できていなくて、最近Jenkinsの専門家に来てもらって、大枠の方針と設定を終えた。でも、細かい作業は大量に残っていて、ひとまずの目標を動かすための諸設定で昨日1日が終わってしまった。

bat処理のあれこれとか、作業としては実に単調なものなのだが、何しろ時間がかかる。一定まではできたが、実際の運用に至るまではまだ調整がいる。一方で、もちろん現在進行形の開発や調整の実務がある。

時間がなければ、理想と遠いコードを書いて対応するしかない。現実はそうそう簡単にはいかない。

でも、そういう中で、あるべき姿をみる。

XPはいう。

エンジニアは常に質の高い仕事をしたいと思っている、と。

そうだよな、と思う。今は、妥協もしているけど、それがない状況を目指すのだ。

実際の現場がXPがいうような理想的状況に至るまでには、相当な時間がかかる。それは年単位の話だ。

できるだけ、そこへ向かえるような仕事をするようにする。開発チームの仕事も、個人の仕事と同じで、差し当たり対応しなければならない仕事と、将来への理想に近づける仕事がある。後者の仕事の割合を増やしていく必要がある。

村上春樹と比べるのもおこがましいが、彼が自身の理想の姿を追求し続けたように、そういう仕事ができる環境を作っていくことも大事だ。

こういうことを考えるためには、まず理想状況をイメージすることが前提となる。

XPは、システム開発がどうあるべきか、その理想像を提示していると思う。

読書: ソーシャルメディア論 つながりを再設計する

藤代 裕之 さん編著
2015年10月出版

教科書の構成になっている。先月出版された本なので、内容は最新の情報になっている。ネット業界のことはある程度ウォッチしているつもりだけれど、「フィルターバブル」など知らない概念もいくつかあった。

「つながりすぎること」に著者たち(章ごとに著者は異なる)が強い問題意識を持っていることが印象的だった。

ソーシャルメディアが定着したのは、私の学生時代より後なこともあって、そこまで強い問題意識を持っていなかったが、おそらく著者たちは、教育の現場などで肌で感じているのだろう。

「都市」の章では、地縁や血縁から離れた無縁でいられる都市のメリットがソーシャルメディアによって失われつつある、という指摘はなるほどと思った。

この章では網野善彦の「無縁・公界・楽」が紹介されている。この本は私も興味深く読んだのだけど、ここで出てくるのは意外だった。

東京視点の「コンテンツイーター」から逃れる、意識的な「ソーシャル鎖国」についての議論は自分の考えが整理された気がする。

ソーシャルメディアにあふれる、煽って、PVを稼ぎ、消費される様をみて、その中で注目を集めることを仕事にしている人は、それはそれで、ひとつの職業だと思うが、とはいえ、辛い仕事だと思う。

その仕事の価値は、紹介しているコンテンツそのものではなく、ほかの人より早く、より目につくように紹介することにあるからだ。記事の蓄積の効果はあるが、単発勝負の繰り返しになる。

さらに自分自身のブランディングをこのような文脈と重ねてしまうと、自分の暮らしを切り売りしているようにも見えてしまう。

それは「コンテンツイーター」に消費される、ということなのだろう。だから、意識的に「ソーシャル鎖国」して守る必要があると。

最後の方で、このようなつながりの過剰な社会への処方箋として、「分人」という概念が紹介されている。小説家の平野啓一郎が「唯一の本当の自分」などなく、人は多様な「分人」を使い分けているという主張を掘り下げた制度についての言及があった。かれの主張は見聞きしたことがある。

でも、正直、詳しくは理解しきれなかった。方向としては同意するのだけれど、この「分人」という考え方にどうにも心理的に抵抗があって、しっかり読めなかった。時間をおいて読みたい。

 

アマゾンのページリンク

スマホに満足していますか? ユーザーインターフェースの心理学

数々のユーザーインターフェースの開発に携わってきた第一人者による本で、とても興味深い。

この中で、ユーザインターフェースを設計する上で、奇術における工夫と同じ視点が重要だという説明がある。

*心理的効果をうまく使う
*顧客の気をそらさない
*疑惑を払拭する
*本当に起こっていることを隠す
*時間の扱いを工夫する

などだ。

「Ctrl+c」でコピーするなどの、ショートカットキーについての記載は興味深い。ふつう、キーボードから手が離れないので、早い動作が可能になると考えられている。

が、アップルに在籍し、マッキントッシュの初期の画面インターフェース作成に関わった人物の調査によれば、実はマウスを利用したほうが実際の時間としては短いらしい。

その結果を、ショートカットキーの利用には難しい思考の処理が必要なため、ユーザーは一時的に記憶喪失になり、短い時間で操作できたように感じてしまうのではないか、と考察しているらしい。

実際にかかっている時間より、ユーザーが感じている時間の方が大事である。

他に、これはもっと有名だと思うが、アップルが音楽プレイヤーのシャッフルを出した時、ランダムに曲を流していくという機能があった。ここで、数学的に出力したランダムをそのまま使うと、同じアルバムの曲が連続して流れたり、あるいは同じ曲が頻繁に出力され、人間が思っている「ランダム」とは違うため、人間が「ランダム」に感じるように補正しているらしい。

これも人間の脳がどう捉えているかに合わせる、という例。

あるいは、身近な例では、「お待ちください」の砂時計が出ていると、待っていても不快感が少ないというのがある。

ユーザー体験を良いものにすること、より不快感を減らし、直感的に使えること、それこそがアプリケーション開発者が大事にすべきことだ、とずっと考えてきたし、もちろん、今でも変わらない。

しかし、その本質的が、手品と同じように、いかに脳を騙すか、ということなのだと言われるとちょっと複雑な気持ちになる。

だが、真理だと思う。

 

アフリカン・ポップスの誘惑

アフリカとの接点というのは全くなかったのだけど、ここ数年弟が調査でブルキナファソという西アフリカの国に長期で行っているのを聞いてちょっと地図を眺めるようになった。ガーナの北側にあるらしい。

そして、ランチトリップの次回開催はタンザニアとなって、それで、ガイドの方も著者の一人となっている本書を読んでみた。

音楽だけでなく、文化についても現地に住んでいた人が書いているから、エピソードも含めて面白い。

例えば、マサイの出身のMr.Ebboは、「俺はマサイ」という曲で、マサイの人はまなりがあって、都会では馬鹿にされがちだそうなのだが、その典型的ななまりをそのままにラップにして大ヒット。

そのあとに、「君の誇り」という曲では一転して、

”故郷のものは君のもの
自分で収穫しなくっちゃ
自ら卑下してたら誰が宣伝してくれる?
自分の持てるものを自ら誇れるよう宣伝してみろ”

という。どこの国でも変わらないテーマなんだと思う。

ほかにも興味深い解説が多かったです。

音楽と一緒に踊るのが基本だそうなので、ちょっと行ってみたいですね。

それから、アフリカと言っても広い。音楽をほとんど知らない私にとってはわからないカタカナだらけで、最初はちょっと苦しかったですが、読みながら、地図を見返して、を繰り返していたら、なんとなく、

コンゴとタンザニア
エチオピアとケニア
南アフリカとタンザニア
ガーナを中心とする西アフリカ

というブロックの位置関係がおぼろげながらわかってきました。