何かと戦っている人

何かと戦っている人は味方を増やすことが大事だと思うんだけど、戦っているという人に限って逆のことをやってる。

というツイートを読んで、納得してお気に入りにしたら、このツイートに対するリプライが見えた。その一つが、脱原発の活動をしているらしい人のものだった。

それを周りを巻き込んでやるので、縁を切ったえせ市民活動家、数知れず。

よりによって、最初のツイートのリプライでこの内容とは、なんとも味わい深い。
自分を省みることのない無邪気さに、微笑ましさすら感じてしまう。

こういう人の声が大きく聞こえてくることに、政治分野の市民活動がなかなか市民権を得ることができない要因があると思う。

そして、こうして並べてみると、人間は、自分と自分以外を別物として思考できてしまう生き物だということがわかる。

サトリ

少し前の話だが、有名になって、炎上して、罵倒されて、活動休止、の様子を見て、なんとなく、漫画の、映画にもなった「サトラレ」を思い出した。

サトラレは、自分の考えが勝手に回りの人に伝わってしまい、それを本人が知ると辛すぎるので、そして、サトラレは超優秀な人が多いので、国家ぐるみでその事実を隠す、という設定になっている。

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汚い言葉をわざわざ本人にリプライする行為はなにやってんのよ、と思う。表現によっては犯罪だ。でも、長年テレビに毒づいてきた(だからもう10年近くテレビは持っていない)人間からすると、何かに反発する事自体は自然なことだし、誰かに言いたくなってしまうのも、人間の性だと思う。

インターネット、あるいは、にちゃんねるやtwitterがなかった時代も、何十万という人たちが、テレビの前で文句をつぶやいていたのだろう。でも、それは見えなかった。

にわかに、見えるようになった。表現者は、多数の人間の気持ちを意図せず読み取ってしまう、いわば「サトリ」の能力を手に入れてしまった、とも言えなくもない。

その状況が、なんとなく、サトラレと似ている気がする。

小保方さんといじめの構図

まず一般論として、論文というのは研究者が自らの名前と共に、自分の発見を世界に発表するものだと思うので、それに対して重要な疑惑があれば本人が説明するのが筋というもの。それができないなら、そもそも論文発表すべきでなかったということになります。

「STAP細胞」騒動「ハーバード大学」研究者たちはこう見る
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140317-00010000-fsight-soci
を読むと、

”1990年代に、日本政府が、ポスドク(博士号を取得した後、常勤研究職になる前の研究者のポジション)の数を3倍の1万人に増やすという政策を設定しました。その目標を達成するために、博士課程の募集を強化したのです。”

とあります。過程を無視して結果だけを求めれば何が起きるか、ということを当時の政策決定者は誰も理解していなかったのでしょうか。
まともに研究している人たちがいい迷惑でしょうから、これを機会に改善されてほしいものです。

また、別の視点では、本来研究者に向かない人がポスドクとしてとどまってしまっている、という見方もできます。将棋の世界では、26歳で4段になれなければプロになる資格を失うというルールがあります。そうでないと将棋以外の世界で生きていけないリスクが高まる、というある種の「愛情」なわけです。研究者の卵に対してもこのような視点は必要だと思います。

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で次に、小保方さんの側に立つとどういう風景かという視点。まず、みんな速度違反しているのに、自分だけ検挙されるなんて不公平、と同じ気持ちがあるかもしれません。もっとも彼女の場合、かなりかっ飛ばしていたと言えそうですが。

テレビもないし、実際にどのように報道されているかわからないのですが、バッシングされているようです。これは「いじめの構図」といえると思います。

一般に、いじめというのは、ある集団内で、その集団の価値観で「劣っている」とされる人が集団で各種の嫌がらせなりを受けるものだと思います。ちなみに、暴力行為があるなら、いじめ云々でなくて単に「暴行」としてしかるべき処理がされるべきと思っています。

いじめが問題として話題になると、メディアや著名人や政治家なりで「見過ごさない勇気を持とう」とか「イジメカッコ悪い」(このコピー自体は秀逸と思いますが)という言説が出てきます。そういうのを読むたびに白々しい気持ちになります。今回のケースはかなり入り込んでいるけれど、圧倒的に弱い立場に置かれた人を複数で攻撃するのはいじめの構造そのものです。

で、当事者として、「見過ごさない勇気を持とう」とか「イジメカッコ悪い」って言われても、具体的にどうるすか、というのは難しい問題です。それで、ほとんどの人は、「私は直接的な嫌がらせになるようなことはしていない」っていう傍観者にならざるを得ないでしょう。

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以下は、私の持論で、いじめられた本人視点でみて、いじめの際にいつでもいえる、大切なことは、

1)無条件に存在を肯定してくれる人がいること
2)いじめている集団など世界の中のほんのちっぽけなものでしかないことを理解すること

と思っています。2)を拡張すれば、可能なら別の場所に移るのが良い。

ほとんどの人は、アカデミックの世界と無縁に暮らしているわけで、そこを追放されたところで全然不都合なく生きていけるし、バッシングする人たちは単に消費の対象としてみているだけで、1年もすればすぐ忘れるからまともに相手する必要もない。そして、可能なら、ほとぼりがさめるまで海外にいるとよいかも。

というわけです。

シューカツゲーム

Youtubeで音楽を聴いていると流れてくる、人材会社の「子供に夢を託すな」というCMが流れてくるんだけど、とってもシュールで、そして怒りが込み上げてきていけない。

「子供に夢を託すな、自分の人生をちゃんと生きよう」っていうメッセージはとても共感する。でも、多くの人にとってそのために必要なことは、1)現状を肯定的に受け入れること、2)言い訳せずに、うすうす気づいている、なすべきことに着手すること、だと思う。

そして、転職を試みることは、これらの行動をとらない言い訳に作用してしまう可能性が高い。そうしたら、また転職するのだろうか。

そもそもここでいう「夢」ってなんなんだろう。最後に子供が歌っているさまをみると、小学校で発表するようなもの?

最近、スタバで作業してるとエントリーシート云々という話が聞こえてくる。昨日、隣で話していた学生は、とても優秀のようだったが、「ある会社の大学のOBと、自分が受けてきた会社をリストアップし、なぜその企業を選んだのか2時間徹底的に掘り下げた」という。

確かに、たまには『本当に自分のしたこと』を考えるのは悪くない。そこからの気づきもあると思う。そして、そこから導き出されるビジョンの力も否定しない。
でも、人生というのはもっと偶発的なものだし、仕事とは具体的なものだと思う。

3年くらい前に、大学でITの若いが採用を積極的に行っている企業の学生向けの説明会を聞いたことがある。その場で、今研究テーマとしていることができるかといった質問があった。そこに参加している企業は研究所組織を持っていないし、到底できるとは思えず、実際にその会社で働く人にその質問をすれば苦笑されるに違いないと思われた。でも、どの採用担当者も、オブラートに包み、嘘に近い表現も織り交ぜ、答えていた。つまりはこの「シューカツゲーム」のルールを守っているのだ。おそらくは、そうしなければ、優秀な人材を採用できないから。

昨日の学生は、付き合っている彼女と話していたらしいが「就活の話ってなかなかみんなとできないし」と言っていた。ここは重要な点かもしれない。企業も同じで、採用についての情報交換を積極的に行っているとは考えにくい。

漫画「カイジ」のゲームの世界が連想される。ゲームの参加者が疑心暗鬼にならずに協力できれば勝てるゲームも、情報交換がしにくい環境ではうまくいかない。そして、ゲームのルールを決めるものが笑うのだ。