バケツチャレンジの違和感はステマの構造から来ているのかも

氷水をかぶるバケツチャレンジ。
この件、いろんなことを考えさせられる。なかなか厄介な論点を含んでいる。

すぐに思いつく、「氷水をかぶるなら寄付すべき」という批判は、このキャンペーンによって今までにない寄付を集めているところからして的を得ていない。

現代はあらゆる組織が関心獲得競争をしている、ということを実感させる。

個人的にこの種の派手なネタとそれをみんなで笑うノリがあまり好きでない、というのはある。共感してもらえる人は多そうだが、それが好きな人がいてもそれは趣向の問題ということになりそうだ。

このニュースに触れるたびに悶々と考えて、一つ気付いたのは、本人が寄付をするのではなく、氷水をかぶって注目を浴びるということは、つまり、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) に関しての活動の宣伝をしているということだ。

だから有名人であるほど宣伝効果は高い。

これは形を変えた宣伝広告なのだ。
他の要素をわきに置けば、単純に、何度も何度も同じ広告を見せられるのはうんざりする。

宣伝には通常、対価がある。この運動が流行ったのは、いろいろな要因があるにしても、氷をかぶる行為そのものがセルフブランディングになるからだろう。また、指名された人、指名する人との関係性強化という側面も見える。もっとも、ここまで流行ると、「踏絵」のようにもみえるが。(踏絵という言葉は、@tokurikiさんがtweetしていた)

広告主からお金をもらって、思ってもないことを書くのがステマとよばれるものなのだが、似た構造を感じる。

このキャンペーンを始めた人は、ALSの友人がいて長年寄付を募る等の活動をしてきたという。そういう人が、氷水をかぶってでも宣伝するのはよく理解できる。

でも、ほとんどの人は、ALSの問題を氷水をかぶってまで周知させたいという動機を持っていたとは思えない。難病というカテゴリだって課題はたくさんあるだろうし、世の中には寄付を必要としている活動は無数にある。

だから、ALSへの関心でなくて、セルフブランディングなり指名された人・する人との関係性強化の目的から氷水をかぶっていることは間違いない。

結局のところ、バケツチャレンジというのは、宣伝であり、セルフブランディングなのだ。

かといって、どちらも悪いことでもない。ソーシャルメディアではありふれていることだ。私もやっている。だけど、繰り返し同じものを見せされて気分の良いものでもない。

【追記】
前に、アイス・バケツ・チャレンジについて、「広告であり、セルフブランディングだから何度も見えるのはつらい」ということを書いたけど、それは間違いではないけど、そこは大事なところではないと思い直しました。

広告だから鬱陶しいとか書いたけど、普段よく目にする寄付の広告ってユニセフと赤十字くらいしか思いつかない。「寄付を募る広告が鬱陶しいほど繰り返し現れる」ということが画期的だと素直に認めます。このキャンペーンは、日本に寄付という文化が広まるエポックメイキングな出来事なのかもしれない。

利権によって左右されがちな税金とは別のお金の流れができるのは歓迎すべきことだと思います。

ムキになって批判したくなる理由の一つは、同調圧力から過去の嫌な思い出を想起するからだろうと思う。この件もややこしいんですけど、本件に限りませんよね。

ビジネスマナーとハンディキャップ原理

「××行」のまま送られてきた封筒を見て、この人は気が利かないな、と思った。

こうしたマナーというのはチェックリストなんだな、ということを実感する。よくわからない相手を評価するための手段なわけだ。わざわざ「××行」と書いて渡すのは、わなを仕掛けるに等しい。

ハンディキャップ原理という本を読んだことがある。オスのクジャクの派手な羽根は、生存に役立つことはなく、むしろ、目立つために外敵に狙われやすい。にもかかわらず、そのようなオスが多いのは、メスがそういうオスを選んだ結果である。では、なぜメスはそのようなオスを選ぶのかという説明として、「目立つ羽根というハンディを背負っているにもかからず、生き残っている点をメスが評価している」という。

この理論は、オスとメスだけでなく、「ハンディを背負って見せつけるもの」と「それを評価するもの」のコミュニケーション全般を説明する。例えば、肉食動物と草食動物でも同じようなことがあるという。ある種のシカは、自分の身体能力に自信のある場合、外敵を感知した時、わざわざ背伸びをして相手に見せつけるという。それが、「俺は、見つかったからって、必ず逃げる自信があるから、狙うだけ無駄だ」という主張になるらしい。実際、そのようなシカはほとんどのケースで狙われない。肉食動物としても無駄なエネルギーは使いたくないからだ。ただし、まれに狙うこともある。だから、ブラフではできない。そこにコミュニケーションが成立している。

人間でも、顎を前につきだす威嚇がある。顎という弱点をさらしてなお、「やれるもんならやってみろ。まあ、俺とおまえの力量差があったらやるだけ無駄だけどな」と主張しているのだ。ほとんどの人は、「弱点をさらけ出している」というふうには捉えない。無意識のうちに威嚇として感知するのは面白い。

ビジネスマナーにも、ハンディキャップ原理が適用できる側面がありそうだ。
海外から日本にきてビジネスをする人は、ややこしい商習慣に驚くと聞く。あるいはあきれると。日本という離島で、実際上は意味がないが評価のためだけに進化した、さながらクジャクの羽を持つ組織が、「珍獣」として映る、というわけなのだろう。

シングルモルト専門のバーにて

写真 2014-07-25 21 32 30
7年ほど前、阪急三国駅の近くに住んでいて、駅前の商店街の奥の方に、酒屋さんなのだけど、金曜の夜だけ、ワインバーになるお店があった。一度だけ入ったことがあった。ワイン通な人たちが集まっているようで、その時は、1970年ものの赤ワインを皆で買ったらしく、グラス一杯私も飲んだ。「これを一杯1,000円で飲めるなんて、お兄さん、運がいいよ。」と言われた。

美味しいかどうかはわからなかったが、渋みがきいていて、それまでに飲んだことのない味だった。また行こうと思っているうちに転勤やら転職で時間が過ぎて行った。そして、昨日、住んでいる江坂から自転車を漕いで行ってみた。

半分くらい予想していたことだけど、あいまいな記憶が指し示す場所にある酒屋は雰囲気が少し違い、バーはやっていないようだった。せっかく来たので、少しふらふらしていたら、気になるバーを見つけた。

中に入ると、所せましとウィスキーが置いてあった。モルトウィスキー専門店。しかも(昨日知ったのだが)、ほぼすべてが樽だし。ウィスキーというのは、樽に詰めて熟成させるのだけど、樽にあるだけだと量も少ないし、アルコール度数も高いので大抵はブレンドで流通している、らしい。

選ぶなんてわからないから、おすすめをもらった。1989年、スペサイド地方の、限定318(くらい)本しか出ていないものだという。

お客さん、運がいいよ。ここのお店のウィスキーはほとんど、limitedだからね。場末のバーだけど、これだけ集まってるところはそうは無いよ。

1966年からお店を開いているというマスターは、徹底的にこだわっているらしい。飲み方はストレート。
まず口に含んでから、噛むのだという。

お酒は、三角形のバランスが大事なの。「味、アルコール度数、香り」
大抵のお酒は、アルコール度数が強いときつくなってしまう。でも、本物のモルトはちがう。50度を超えていても、味と香りがちゃんとしているから飲める。

ちょくちょく行ってみようと思う。

助けてという声がしたから通報したこと

とある、デイケアサービスの施設入口から「誰か助けてー お願い、助けて~」という、声がした。

入口はしまっているし、施設の営業時間は終わっているようだ。

気のせいでなくて、また聞こえる。

恐らく、認知症の老人と思われるのだか、もう少し若い可能性もありそう。

鍵のかかったドアをドンドンすると、また声が聞こえる。

近くに止まっている車に書いてある、その事務所に電話するも営業時間外とのアナウンス。ググっても同じ電話番号のみ。

そして声は止まらない。

不気味なこと極まりないので生まれて初めて110番。

立ち会う必要はなく、必要があれば電話がくるとのことだが今のところ電話もなし。

やれやれ、です

オジサンとヤングのLINEスタンプをめぐる対話

オジサン(以下オ)「最近、飲み屋のLINEグループに入れてもらって、初めてLINEをまともに使っている人たちを見ることになって」
ヤング(以下ヤ)「また、ずいぶんと遅れて」

オ「それで、スタンプがどんどん出てくるんだけどさ、みんないろんなのを使うんだよね。で、俺はまだ書き込みしてないんだけど、それみてると、普通の絵文字使ったら印象悪いな、という雰囲気は感じるわけ。で、そういう自分をみて、これ完全にプラットフォーマ―たるLINEの思惑通りで悔しくてさ、納得いかないんだよ」

ヤ「う~ん、それは慣れの問題ではないかなー」
オ「いや、癪でしょ。こんなに露骨だと」

ヤ「でも、プラットフォーマ―のルールに従うのが癪だというなら、Googleはアルゴリズムにのっとっているとはいえ、順位を変えることができるし、Facebookに至っては何をフィードに表示させるか操れるわけだから、同じようなもんでしょ。なのに、GoogleとかFacebookは使っている」
ヤ「あと、絵文字文化に慣れてないだけじゃないの?」

オ「それは認める。ただ、課金文化になじめない」

ヤ「オジサン方も課金大好きじゃないですか。家、車、時計、靴、服、ホテル・・」
ヤ「もっとも、オジサンはそんなにお金持ってないようですけど」

オ「ブランドにもこだわりはないしね」

ヤ「プラットフォーマ―がルールを決め、必ずしもブランドでなくてセンスが求められる、というと、ネクタイなんかが近いでしょうね。あれなんか、客観的に見たら首輪じゃないですか。実体のないアイコンにお金を使うってことは他でもやってるってことですよ」

オ「う~ん。しかし、自分が発するコミュニケーションを、自分の言葉でなくて、買ってきたアイコンを使うというのはちょっと・・」
ヤ「リアルのコミュニケーションでも、非言語の方がずっとものを伝えるという意味で言うと、買ってきたネクタイはかなり相手に影響するはずですよ」

ヤ「それにオジサンは、自分でつくる、ということにとても価値を感じている」
オ「まあそうだ」

ヤ「たとえば、外資系のIT大手のG社とかS社の日本法人の営業系の社員が自社プロダクトについて誇らしげに語っているのをみて、『お前はつくってないだろ』と心の中で突っ込んでいる」
オ「うん」

ヤ「だけど、小さい会社にいれば、作るのがすべて出ないことくらいわかっているでしょう」

ヤ「それに、北の国からの五郎さんのように『欲しいのなら自分でつくれ。作らないってことは本当には必要ないってことだ』なんてマッチョなこと言ってる時代じゃなくて、無数にあるものから何を選ぶか、そこにセンスが求められるっていう時代じゃないですか」
オ「・・・」

ヤ「さらに、自分のアタマで考えよう、という某ブログのテーマを信条にしている節がありますね」
オ「昔からね」

ヤ「そう。小学生の時、算数の問題ではその場で考えて綺麗な回答をすることに美学を持っていた。だから、同級生が塾に通うようになって予習しているから答えがわかっていて、それで答えて先生に褒められているのを見て、『これはおかしい!』って思ったことを31になろうとしている今でも覚えている」
オ「まあ、そうだけど」

ヤ「これだけ言うと、利発な子供って感じだけど、別の視点でみるとまた違ってきますよ。たとえば、オジサンに絵心は無い。そんな子が前に出て絵をかけって言われたらかなり困ったはず」
オ「今でも困るね」

ヤ「算数が苦手な子も近い気持ちを持っていたに違いないです。かりに絵をかけと言われるのがわかっていて、教室に通って予習して絵を書く練習をして、それでみんなの前で、許容できる絵を描いたとしたら、絵が下手と知っている先生は褒めるでしょう」

ヤ「それを見た、絵を描くのが得意な人は思うでしょう。『わざわざ教室なんて通って、予習して描くのかよ。俺なんて、即興でもっとうまい絵を描けるぜ』と」
オ「う~ん。ちょっと話がズレている気がする。」

ヤ「いえ、根は繋がりますよ。つまり、結果が大事であって、自分で考えたことだけが素晴らしいと言い切れないと」
ヤ「そして、結果を大事にするがゆえに、必要ならお金も払うと。身だしなみを整えるがごとくに」

オ「・・・」
オ「ただ、昔ほどにブランド物がコミュニケーションにプラスに作用しなくなったように、LINEスタンプも変遷していきそうな気がする」

ヤ「その可能性はありますね。でも、出てきたばかりでそんなこと言っても、流行についていけないことへの負け惜しみにしか聞こえないですね」

バイラルマーケティングと好みを語ることの不毛さ

バイラルマーケティングというのが苦手で、もっと言うと嫌い。

たとえば “忍者女子”との社内恋愛には気をつけろ! というもの。

タイムラインやらにたくさん流れるから、「忍者のごとく情報収集する女性の諜報網に気をつけよ」みたいな記事かと思って読んだんだけど、忍者が登場する必然性を1ミリも感じなくて、何が面白いか全然分からなかった。
ただ、バズらせたいってことはよくわかるからイライラした。

と考えてふと思ったのは、これは、ミュージシャンのYouTubeのコメント欄でよく展開される、不毛なやり取りと同じ現象なのかもしれない。

こんなかんじの↓
「××最高!」
「どこがいいのかわからない」
「××の良さがわからないなんて信じられない!!」

ソーシャルメディアの世界での信念や考え方の分断なんてことはよく言われるけど、面白いと感じるツボの違いの摩擦も起きるんですね。しかしまあ、人間とはめんどくさい生き物ですね

電子マネーが変える自販機のインタラクション

”食堂の券売機で使い方がわからず困っている人がいた。電子マネーと現金の両方が使えるのだが、電子マネーの場合、「欲しい料理を選択した後に読み取り機にかざす」必要があり、「最初にお金を入れてから料理を選択する」現金と順番が逆なことが混乱の原因だった。”

という内容をネットで読んだ。なるほど。確かに電子マネーの場合、金額が確定した後に精算する。もし反対に、最初に電子マネーをかざしてから金額を確定して精算する、ということ許可したら、詐欺の温床になりそうだし、プログラムは複雑になりそうだ。

どうしたら混乱を避けられるか。
最初に考えたのは、「電子マネーを使う」というボタンを設置するというやり方。自販機との対話(インタラクション)は次のようになる。

「電子マネーを使う」ボタンを押す
→(すべての料理のボタンが光って選択可能に)
→料理を選ぶ
→(電子マネーをかざす箇所が光る)
→電子マネーをかざして精算する

「電子マネーを使う」というボタンを目立たせることで、最初に電子マネーをかざしてしまう、という問題を解決しようというもので、電子マネーの時も、現金の場合と似た流れにしようというアプローチ。

でも、このアプローチだと、新しいボタンをつくらなければならない上に、一つ余計な操作が増えてしまう。さらに、これでも最初に電子マネーをかざしてしまう動作を防ぎ切れるか疑問だ。

* * *

身近なところでも電子マネーが使える自販機はぽつぽつとある。残念ながら手元の、ICOCA、WAONは使えなかったが、見ていて思ったのは、これは慣れるな、ということ。

現金のインタラクションに合わせるのではなく、電子マネーに合わせていくアプローチの方が正しいと思われる。なので、当初の課題については、いきなり電子マネーをかざしたら、「商品を選んでください」という警告を出すのがコストも少なくてすみそうだ。

警告を出すというのは、設計時にはできるだけ避けるべきだ。でも、今後、電子マネーが使える自販機は増えてき、他でも同じことが起きることを考えると、むしろ親切な警告と言えると思う。

* * *

このアプローチを進めれば、同じ機械なのだから、現金側のインタラクションを電子マネーと同じにしたいと考えるのは自然だ。つまり、最初に商品のボタンを押し、その後現金を入れていったとき、その商品の金額に達した時点で出てきてもおかしくない。

近くの電子マネーが使える自販機で試してみた。まず、最初にジュースを選んで下のボタンを押すと、この時点でボタンが光るので、選択されたことがわかる。ついで、130円を入れてみる。ボタンが光り、すでに商品が選択されているので、出てきてもおかしくなかったが、反応はなかった。
その後、ボタンをもう一度押したら出てきた。つまり、「お金をいれて」「商品のボタンを押す」という旧来のインタラクションだった。
そしてあまり欲しくないジュースを買ってしまった。

* * *

ところで、考えてみると「お金を最初に渡して、後から商品を選ぶ」というのは自販機に特有のインタラクションで、普通、買い物をするときは、「商品を選んで、(レジで)お金を渡す」のが自然だ。

どうして、自販機や券売機は最初にお金を入れるようになったのか。

初期の自販機のデザイナーは、A.小銭を投入させるか、B.商品選択のボタンを先に押させるか、どちらも可能だったはずだ。

A.「お金を入れる」→「商品を選択」
B.「商品を選択」→「お金を入れる」

Aに慣れ親しんだ身からすると、Aが自然と思ってしまうが、初めて自販機を見たと仮定すると、大差ないようにも思われる。

よく考えてみると、Bの場合、お金を入れていって金額に達したら、いきなり商品が出てくるのは不自然に感じられるかもしれない。
それなら、商品のボタンを押したら商品が出てくる、という方が最終決定の瞬間がわかりやすい。

現在の電子マネー対応の自販機は、既存の現金対応の設計にアドオンで対応していると推測される。自販機の設計の周期はわからないが、そろそろ、最初から電子マネー対応が前提の自販機が設計されていて、そこでは、ここで書いたような内容をディスカッションしているのかもしれない。

「わたしの勝ち!」というセリフのカッコよさ

勤務先のビルの古本屋天牛さんで「平成サラリーマンのサバイバル白書」を買った。1994年発行で、90人余りのさまざまな会社のサラリーマンをインタビューしたものらしい。

最初の人は、三井物産の営業部で働きながら、「会社と自分の境界線は就業規則だ。自分の時間は自分の好きなように自由に使う」と決め、マイウェイを貫いた人の話。

時代は、行け行けどんどんの1960年代。今よりはるかに決心が必要だったはず。もちろん、手を抜いて続けられる仕事でもないでしょう。

”私がこの会社でマイウェイを貫き、しかも営業部門で最後まで働き続けられたら、私の勝ち!”

というくだりを読んで、かっこいいと思った。

高校の古典の先生が最後の授業のいちばん最後に、

「理系のみなさんは、これから古典を学ぶ機会もなくなるでしょう。でも、定年退職した後、古典を勉強しようかなと思ったら、私の勝ち!」

と言い放ったことを思い出した。
その時も同じ感情を持った。

これは、よく言われる「勝ち組、負け組」とは次元が異なる。
自分は何をもって「勝ち!」とするのか、整理したいと思った。

「宇宙はなぜ このような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 

著者:青木薫

久しぶりにハマって、電車の中で読んでいて、降りて、ホームのベンチで読んで、さらに降りてすぐの喫茶店で読了。

冒頭は以下のような感じで始まる。

”宇宙論の分野に「人間原理」というとんでもない考え方が登場した。(略)
「宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには、われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない」”

「???」である。
量子力学の世界には認識論のような話がある、というようなことはうっすら聞いたことがあるが、これはどういうことか。

著者は理学の博士号を持つライターで、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」「暗号解読」「宇宙創成」の翻訳はどれもわかりやすく、しかも人間のドラマがあって面白かったから、期待していたのだけど、期待以上だった。

人類が宇宙をどう理解してきたのか、という歴史を、それぞれの時代に生きた人々が課題に取り組む様子と共に伝えている。

筆者自身が持った問いかけと一緒に進むのもいい。

細かいところは理解できないところはあったけれど、大きな流れはわかった気がする。

ネタバレになってしまうけれど、冒頭の結論は、「観測者選択効果」ということらしい。

5cmの網を使えば、5cm以上の魚しか網にかからないが、5mmの網を使えば、もっと小さな魚も捕まえることができる。

例えば、少しでも重力の力を大きかったり、反対に小さかったら、宇宙は全く別のものになっていた。なぜ、今の塩梅になっているのか。それはずっと謎だった。

しかし視点を変えると、人間が存在できる条件の宇宙を観測しているから、そのような塩梅になっている、というのだ。
※今見ている宇宙には人間が存在している。

宇宙は、人間が今見ている宇宙以外にも、無数といっていい(10の50乗らしい)数が存在しており、人間が存在している宇宙を観察すると、人間が存在しうる条件を満たした宇宙になっているのは当然である、という考え方が現在広く受け入れられているという。

けむに巻くような話に聞こえそうだが、本書を読んだ後では、サイエンスの結論として、なんら不自然を感じない。

現代の蔵

マンションを所有している会社が変わって、ペンキ塗り替えたり、郵便ポストが新しくなったりしている。

その一環で、空きスペースをトランクルームにして貸出というサービスも始まった。1.4帖で月2,700円(住んでいる人のみ)はなかなかいい。

もっとも、今はロフトが物置になっていて、地震の時が少し不安なものの、置く場所は間に合っているからいらないけど。

* * *

10年以上昔に、確かNHKスペシャルで「使いもしないものを買ってはトランクルームを置く人々」みたいな特集を見て以来、長いことトランクルームにはネガティブなイメージを持っていた。

が、最近は、部屋に置くものを最小限にして、使う頻度の低いものをトランクルームに入れてしまうというのは結構ありな気がしている。つまり、現代の都会生活者にとっての「蔵」だということ。