「ともだちひゃくにんできるかな」的価値観の弊害

持論:
みんなと仲良くなんてならなくていい。苦手だったら無理に自分の時間を使って付き合う必要などない。ただし、様々な関係性の中で、苦手な人とも関わる必要があるから、不要な摩擦を生まないために、礼儀作法を学ぶ必要がある。

たしか小学校6年生の時だった。いつも屁理屈ばかり言って嫌われている女子(Iさん)がいた。私も嫌いだった。

ある時、確か給食の時間かに、「ポテトチップスを食べているとき、手がベトベトしたまま、本とかに触れて汚してしまうことってあるよね」という会話を、担任と何人かの生徒とで話していた。

で、話を振られたIさんは「そいういうことはないです」と言った。ちょっと空気を読まない感じだった。

それを聞いた担任は「ほんとに?」「いや一度くらいはあるでしょ」と詰め寄る。
でも、彼女はあくまで「ありません」と言い切った。

担任は不機嫌になって「本当はしているのに、していないと見栄を張るようなことは良くない」というようなことを言って結論づけた。

私は、子供心に、(え?、でもIさんは本当にそういう経験がないかもしれないのに?)と思った。
細部はともかく、その時疑問に思ったことは今でも覚えている。

私は、Iさんのことも嫌いだったが、とにかく自分で決めつけて押し付けてくる担任にも反発を持っていた。

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ここで、冒頭の持論に戻ると、Iさん視点に立つと、おそらく苦手であるだろう、担任と不要な摩擦を生まないために、単に「そうですね」と言うべきだったかもしれない。礼儀作法とは、そういう冷めた視点でみることもできる。

もちろん、生徒よりずっと長く生きてきた担任が、もっと広い視野を持ってしかるべきだ。

人はそれぞれの背景を持っていて、事情があり、考えがあり、動機がある。そういう想像力がゼロで、「自分の考えていること」=「常識」=「あなたにとっても当たり前」で話されたらたまったものではない。

ともだちひゃくにんできるかな、の背景にはそういう、自分とは異なる価値観への想像力の欠如と、暴力的といっても良い押しつけがましさを感じてしまう。

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実際にそういう人と会ったことはないのだが、飲み会のことを「チームビルディング」と呼ぶ人がいるらしい。この表現に、ともだちひゃくにんできるかな、に通じる考えが見え隠れしているように思う。

採用段階で人選した結果、飲み会のことをチームビルディングと呼んでも、メンバー全員で違和感がないのなら、外の人間がとやかく言うことはない。価値観を共有しているチームは強いのだから。

ただ、そうだとすれば、そのチームは多様性に欠けていると言えるし、仮に、自分たち以外の組織も同じように考えるべきだと思っているとしたら、世間知らずと言われても仕方ないだろう。

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苦手な人とも関われないといけないというのは、主に組織においてである。

組織においては、お互いに期待されていることをこなすことが大事になる。そこには、双方が期待している契約のようなものがある。それを履行することが第一である。そして、当初の話=契約と状況が変わったら、お互いにそこにいる必然性はなくなる、という前提が、本当はいつだってある。

契約以上のことを当たり前と思ってはいけない。

それは人と人との関係においてもそうである。20歳を越えてしまえば、なんの理由もなく会って、話すという関係・時間は少なくなる。誰かと何かをするには、お互いに期待していることがある。だから、それをちゃんと果たす事が前提。

それ以上のことを当たり前と思ってはダメだと思う。

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もちろん、それだけの関係しかなかったら寂しい人生になる。

何かの縁で知り合って一緒になったのだから、もし、興味関心が重なるところがあって、お互いのことをもう少し知ってみたいと思うなら、よかったら、もう少し踏み込んで話しませんか。というスタンスになる。これだけ多様な価値観・考え方があるのだから、フィーリングはあわなくて当然で、合えば、それは「有り難いこと」。

「ともだちひゃくにんできるかな」的価値観とは随分離れたところにあるが、こちらが真理だと思う。

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たまたま同じ組織にいるだけで自分と同じ価値観を持っていると思い込み、自分の価値観に合わない言動には怒りだし、いつも不満を言っている、というような人はけっこういるようだ。

「ともだちひゃくにんできるかな」的価値観の弊害と思われる。

あの人は今。結局は釣られて書いただけ

mixi創業者が新しいサービスに先陣切ってチャレンジしているという記事

一度成功した後も、それに満足せずに次のチャンレジを続けることには共感する。生涯現場で新しいサービスに挑戦し続けたいとか、本当にかっこいいと思う。

でも、なんだろう、「あの人は今」、のような寂寥感を覚えてしまう自分がいる。

本来、mixi本体でチャレンジしてFacebookと競い続けることができなかったという、ある種の挫折をして、今に至るといえなくもない。実際、モンストがでるまでずっとmixiは停滞していた。だから、そこに寂寥感を覚えるのだ、と最初思った。

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でも、違うと思いなおす。

「自らビラを配る」というのは、叩き上げの人が苦労時代にすることであって、成功者がすることではない。成功者がまたビラを「配らなければならないのは失敗したからだ」

という価値観が根底にあって、無意識にそんな風に思っている自分がいるらしい。

これは右肩上がり時代の遺産といえるかもしれない。
日本のたくさんの制度は、右肩上がりを前提にしている。それで、とっても無理をしていて、そのツケを主に将来世代に押し付けている。たとえば年金とか。

将来世代を待たずしても、そろそろ限界が見えている。
のだが、まだ見えないでいようとする人が多く、そういう人が本当に困ったもんだと思っている。

いつも創りつづけている人がかっこいい、偉そうに口だけの人間にはなりたくないと思ったりしている。

のだが、そういう風に考えている私も無意識に、右肩上がり神話が染みついているのかもしれない。気を付けないと。

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と考えて、また思い直す。
「ビラを配る成功者」とはあまりにもステレオタイプな、とぶ板営業のスタイルで、話題性がある。私のように話題にしたくなる。

レベルは違うが、某氏の声帯摘出手術を思わせる。

中の人の個人的な、辛いエピソードほど、ネタになるのだ。

声帯摘出手術の件では、専用サイトから書籍まで準備されているという。
なんだかいやである。

個人的には、自分とかかわりのない人の悲劇だとかのストーリーは、フィクションと変わらないように接するのがよいと思っている。
ソーシャルメディア時代には必要な心構えじゃないかなと。

どっかの誰かさんの(嘘かもしれない)(PVを稼ぐだけかもしれない)感動物語を読むなら、ありふれ過ぎている自分の知っている誰かのストーリーをじっくりと聞いている方が幸せになれると思う。

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つまり長々と書いたが、記事に「つられ」て書いただけかもしれないということ。

http://goo.gl/7XWZ4Q