サイボーグとかマトリックスとかシンギュラリティの話

血液クレンジングなるサービスがあるらしい。その言葉の響きだけで気持ち悪くて詳細を見る気にもなれない。しかし、考えてみるとこれはサイボーグ化の第一歩なのかもしれない。

人間というのは慣れる生き物だ。個人としてもそうだし、集団としてもそうだ。自分の体の一部を人工的に作り変えることの抵抗感は、こういうところから無くなっていくのかもしれない。

五感のバーチャル化はどんどん進んでいる。まずは、視覚。オキュラスから覗いたジェットコースターは臨場感あふれていて、思わずのぞけっていた。この種の技術の事例として御多分に漏れず、エロ関係では実用サービスが準備されているという。

少しの時間であったがオキュラスから観た時、冷や汗をかきながら、これは慣れるな、という確信もあった。ちょうど、夢を観ていて、夢であることに気づいたときのように。リアルとバーチャルの交差点。マトリックスの世界は確実に近づいている。

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そして、人工知能。2045年問題という、この年にコンピュータの知能が人間を超える、というSFのような話が真剣に「現実的な問題」として議論されている。昨今の技術の進歩を見ていると、時期はともかく時間の問題だろう。

自分のしている「現時点において人間にしかできない仕事」をみても、ああ、いずれはこれはコンピュータに置き換わるな、と思う。もっとも複雑とされる意思決定も、結局は変数の組み合わせだ。特に複雑なのは人間心理とか関係性などがあり、数年で解決するような課題ではないと思うが、いずれ数値化できるようになりそうだ。なにより重要なのが、その方が顧客にとっての価値を生み出せるようになるから、まじめな企業ほどその方向に力を注ぐに違いない。

Google的な、何か課題があって、人がそれを利用して、そのフィードバックを正しく得ることができれば、あとはそのデータの数を多くすれば、いずれは「正解」に近づく、というアプローチをとる会社はどんどん増えていくに違いない。

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さらにその先に、心の問題がある。

私は、個人のアイデンティティというものを信じている。高校の時、使っていた例文つき英単語帳「Duo」の最初の文章は、

You must respect the will of the individual.

だった。

これは今でも私の金科玉条だ。信仰している、と言ってもいいかもしれない。

個人それぞれの存在は、相対的な数値で表すことのできない、絶対的な価値を持っているがゆえに、個人の意志は尊重されなければならない。

心のとらえ方としては、思想家のケン・ウィルバーの、客観的側面と内面的側面は別物なのだ、という考え方が気に入っている。

いくら詳細に、物理学的に、あるいは生物学的に、ある人物を分析したとしても、その人が何を考えているか、感じているかはその人に聞いてみなければわからないのだから、客観的側面と内面的側面を同じ軸で議論することはできない、という主張だ。有用な考え方だと思うし、なにより、そのように、心というものは物質とは別に存在してほしい、という願望がある。

でも、ところ実際のところはわからない。

ただ、イメージできてしまうことがある。

今からほんの数百年前の、あるいは現在でもそのような社会はあるかもしれないが、呪術的な考え方が中心の社会では、例えば、雷は神の怒りと本気で信じられていた。その社会へ行って、「そんなんじゃないですよ。電気というのがあってですね、」などと話しても、ほとんどの人には理解されないだろうし、興味を持った人がいたとしても、「なんと畏れ多い!」と拒絶されることだろう。

心が解明され、再現できるようになった世界の住人と私の関係は、現代人とその呪術的な社会の人との関係と非常に似通っているのではないか。

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マトリックス的な世界がやってるのはほぼ間違いないと思われるのだけれど、今のところ自分の考えを変えるつもりはないし、また、そのような世界が来ることを予防したり、拒むこともできない、と思っている。

心が解明され、コピーしたり、あるいは「血液クレンジング」の如く、「精神リフレッシュ」だとかいうことが簡単にできる頃には、私は生きていたとしても老人になっていると思う。

私の、人間個人の生まれ持った心には絶対的な価値がある、という考えは古臭いものになっているだろう。

「どうして人工的に作られた心を差別するのだ?」というわけだ。

きっと、人工的につくられた心に対して、「オーガニックな心」という、-新しい世代の人にとってはあまり意味のない言葉―を、私のような古い人間は使うのだろう。
そして、

「あのじいさんは、また『オーガニックな心は特別』とか言ってるよ。時代遅れの頑固者だなあ」

とか言われるのだろう。

でも、どうせ私はその時代には老人になっている。だから、古い価値観のままで人生を終えることができる。つまり、この、機械が人類を凌駕するという、シンギュラリティの問題に関しては、私は「逃げ切りメンタリティ」でいる。

多様性についての考察

多様性について考えるとき、「世界にひとつだけの花」という歌を思い出す。メロディーは好きだし、槇原敬之も好きなのだが、この歌詞が結果として結論とするところに問題を感じてしまう。

”花屋の店先に並んだ いろんな花をみていた ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね”

この歌詞は、ミュージシャンのYouTubeのコメント欄に時々発生する、
「○○さん、最高です。○○さんの良さがわからない人が信じられない」
「○○がいいとかありえない。曲も歌詞も三流」
とかいう、不毛なやり取りをしている人たち向けには最適なメッセージかもしれない。

でも、これをもって身の回りに適用しようとするのはナイーブ過ぎると思う。
歌詞をよくみれば、「花屋の店先に並んだ」と言っている。

花屋に並ぶためには、売るために品種改良を重ね、虫がつかないように農薬が散布され、出荷時の基準を満たす必要がある。これは、SMAPという超売れっ子が、それぞれが打ち出しているキャラクターは違うけど素晴らしい、と歌うのと似ている。

実際には、ほとんどの花は花屋に並ぶことはない。野に咲く花の中には、花と認識すらされない花もたくさんある。

私は、だから素朴がいいのだ、などというつもりはない。プロは自分をかけて戦っている。どの分野にも評価軸というものが存在し、良し悪しがある。よいものに触れたいと思うし、そういうものを作り出す人を尊敬する。これは相対的な価値といえる。

一方で、あなたは誰であれ、存在そのものに敬意を示す、という考え方がある。これは絶対的な価値である。

私には、「世界でひとつだけの花」は、本来は、存在に対する絶対的な価値がテーマなはずが、自分にとって心地よい、相対的な価値を基にした評価によりどころを求めてしまっているように思える。

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多様性を担保する上では、以下が必要になる。

1)自分と異なる価値観を認めること
たとえ理にかなっていないようでも、その人がそのように考えることは厳然たる事実である。という、言葉にすれば当たり前のことを受け入れられない人が多い。

自分と異なる価値観の人に対して「信じられない」という人がいる。言葉の修辞でなく、文字通り信じられないと思っているとしたら、単に自分の理解力のなさを喧伝しているだけなのであるが、そういう人はなぜか得意げである。

正しさは問題ではない。その正しさの基準が異なっているのだから、正しさを持って相手の価値観を否定することは無意味だ。

自分にとって正しくない行動や考え方を見聞きするのは、愉快なことではない。そこには心の広さが必要になる。

たとえば、電車に乗っていて、発達障害と思しき人が、「うー」と声を出していたとする。

心はざわつく。

でも、その人を哀れむとか黙らせようとか矯正しようとか考える前に、単にその状況をそのまま受け入れたいと思う。

その人はもしかしたら、心が乱れるような妄想に駆られているかも知れない。あるいは、単にのどの調子が悪く、「あー、あー、あー、マイクのテスト」程度のことなのかもしれない。

いずれにしても、私がその状況を憎む必要はない。そして、彼(彼女)と私は二度と会うこともないだろうからその理由を確認することもない。単に、私の心がざわついているだけなのだ。

2)1)の上で、相手と長期的に良好な関係を築くために、自分が不快に感じていることは伝え、不利益にならないように交渉すること

相手と長期的に良好な関係を築くためには、こちらのことも伝える必要がある。交渉も必要だ。そのときに1)の姿勢を持ったまま臨む必要がある。面倒だし、忍耐がいる。でも、それをしないで苛立ちを抱えてもいいことは何もない。

「ざまあみろ」「いわんこっちゃない」という言葉は、そうなる前にちゃんと伝えたり、交渉することを怠った人が発する言葉だ。さらに、そういう言葉を発する人は、往々にしてそうなる、悪化した状況を望んでいる。

まったく楽しくない状況だ。

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多様性のことを考えるとき、グローバルだとかいわなくても、身の回りの人たちを観察するだけで、その多様さに驚く。そして、その多様性を担保するために必要なことは実に泥臭い。

政治イシューを巡る対立を見ていて悲しくなるのは、声が大きい人ほど、多様性はいらないと思っているようにみえることだ。

自分と反対の意見を持っている人が大勢存在するという事実を、それは面白くないと思うのかもしれないけれど、それは受け入れてもらわないと困る。

そして、なぜその人たちはそのように考えるのかを、善悪という判断なしに考えてみたらもう少し違う世界が見えてくるのにと思ってしまう。