杉原千畝記念館


リトアニアに関係する日本人と言ったら、杉原千畝が有名だ。つい最近まで、東欧の国としか知らなかったけれど。

P_20160807_130512

今回の旅では、ヘルシンキ・ヴィリニュスに続く3つ目の都市カウナスの、大通りから少し離れたところに、旧日本領事館であり、実際に杉原千畝がビザを発行していた建物が杉原記念館となっている。丘の上にあるので、階段を登っていくことになる。お金を持っている人は高いところに家を建てたがるのは万国共通らしく、立派な家があちこちに立っている。ほとんど人はいなかったが、途中日本人とすれ違った。

記念館の受付で勧められて、杉原千畝が生まれたとされる八百津町が作成したDVDをみた。

ハイライトがいくつかある。朝起きたら老若男女が領事館に押し寄せてきたこと。本国から許可が降りない中で悩むこと。独断で発行し続けたこと。カウナスを出る列車の中でも最後まで書き続けたというシーン。別れ際、スギハラあなたのことは忘れない、という言葉。戦後、助けられたユダヤ人が彼を探し、28年してついに再会したこと。

思わず、目頭が熱くなる。

・・のだが、情緒的な説明しかない映像に不満が残る。

このDVDではビザを発行した当時の杉原千畝という人物は、本国の決定に反してビザを発行し続けた、ということしか描かれていない。

素朴な疑問として、なぜ日本のビザが必要になるのかということもある。

記念館では流石に説明があった。ナチスが席巻するヨーロッパから脱出するには、西は不可能、南のトルコルートが閉ざされた結果、ロシアから抜け出すしかなくなった。そこで、オランダ人が動き、世界に点在するオランダ領へのビザを発行する。ロシアー日本ーオランダ領へというルートが開ける。このルートを確保するために日本の通過ビザが必要だった、というのが大雑把な説明になるようだ。

当然オランダ人の活躍もあったのだが、DVDでは一切出てこない。

また、記念館の中に置いてあった彼の生涯を書いた本をぱらっとめくると、ソ連にある日本大使館に配属になったが、ソ連から入国を拒否されたという。それは、満州時代に彼がソ連との交渉で完全にソ連側をやり込めたため、恨まれてのことのようだという記述だった。語学にも堪能で、相当のやり手だったらしい。が、その種のエピソードも説明も一切なし。

「情緒だけ」だとその時点の判断を評価することができないし、本人に対して失礼な気さえしてしまうのだが、情緒的な側面に偏ってしまうのは、平家物語以来の日本の伝統なのかもしれない。

もう少し知りたいと思って、検索したところ、ウィキペディアの杉原千畝のページがとても充実していて、読みふけってしまった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/杉原千畝

ウィキペディアには独特の空気感がある。感情的な部分を敢えて情緒的な表現を控えようという、ウィキペディアンの文化というか矜持のようなものを感じる。

杉原千畝は戦後、外務省を辞めている。辞めさせられた、というのが本人関係者の捉え方で、驚くべきことに、日本政府が公式に名誉を回復したのは44年後で比較的最近のことだった。ということも、恥ずかしながらこの時知りました。